保阪正康 日本史縦横無尽
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戦後混乱期に現れた自称天皇たちの顛末
さて全国巡幸についていささか脇道にそれる話(それも最初の試みの神奈川巡幸の話ではないのだが)を、語っておくことにしたい。 GHQ(連合国軍総司令部)の内部では、日本の民主化と非軍事化を徹底し…
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欧米のカメラマンの“不作法”にも天皇は鷹揚に構えた
もうひとつ、宮内庁や日本の警備当局が恐れた出来事も顕在化した。この全国巡幸の試験的試みは、当然なことに外国のメディアも多数取材に駆けつけている。日本の新聞記者やカメラマンは、天皇の民情視察ともいうべ…
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全国巡幸が天皇を変えていくことになった
この初めての天皇による民情視察について、もう少し詳しく書いておこう。マッカーサーの内諾を得たとはいえ、この巡幸に政府や宮内庁は特に不安を募らせていた。本来の記述から少し外れるエピソードをまずは2、3…
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GHQは人間・天皇の全国巡幸を注視した
天皇はマッカーサーを軸にしたGHQ(連合国軍総司令部)との交渉では極めて巧みであった。むろんマッカーサーには、天皇を利用して占領統治を円滑に進めて、ヨーロッパのアメリカ軍をはじめ連合国軍を指揮してい…
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人間宣言か民主主義の宣言か
五箇条の御誓文を入れたいというのが、自分の意思であり、人間宣言などの部分は、その次の問題であった、と天皇は発言した。昭和52(1977)年8月の記者会見の席である。天皇の真意は次のようになるであろう…
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「人間宣言」は「五箇条の御誓文」を冒頭に置いた
昭和21(1946)年1月1日、天皇はいわゆる「人間宣言」を発した。正確には「新日本建設に関する詔書」というのだが、その骨格は「朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単な…
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天皇とマッカーサーの「黙契」
あえて触れておくが、天皇とマッカーサーの会見は11回行われているが、そこで何が話し合われたかは具体的にはわかっていない。通訳は都合3人であったが、奥村勝蔵、寺崎英成、松井明のいずれも、限定された枠内…
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2人は会見を重ねるうちに戦後日本への共通理解を得た
昭和天皇とマッカーサーの会見は、現代史の出発点のセレモニー(儀式)だったということになるだろう。さまざまな形でこの会見は語られているのだが、本質的には敗戦国の君主が戦勝国の指導者に儀礼的な挨拶、戦争…
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天皇・マッカーサー会見に影響を与えていた東京裁判
奥村勝蔵の立場が極めて微妙だったというのは、東京裁判の進み具合によってというべきであった。東京裁判は、昭和22(1947)年2月にひとまず検察側の訴因55に対する立証を終えたのだが、それ以後、被告た…
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真珠湾攻撃だまし討ちの原因とされた奥村勝蔵
第4回の天皇とマッカーサーの会見は、昭和22(1947)年5月6日である。第2回、第3回の通訳は、やはり外交官だった寺崎英成である。第5回も寺崎であった。第6回以降は松井明が主に担当したといわれてい…
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天皇は「責任」という語を持つ必要はなかった
私の分析が誤解か否かは歴史的に断を下すほどの史料はない。だが昭和天皇の発言を丹念に追いかけるとわかるのだが、決して用いない表現があることに気がつく。その一つが「責任」という語である。それゆえの分析な…
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天皇は戦争の全責任を負うと本当に語ったのか
マッカーサーの回想記と外務省、宮内庁の第1回の会見録との間にある重要な差異について、検討を加えることは天皇の戦争責任を考える上でも極めて重要である。そこで奥村勝蔵の残した記録について、私なりの分析を…
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天皇・マッカーサー会見の真相を追う
では天皇とマッカーサーの会見の内容はどのようなものだったのか。この内容について、平成14(2002)年までは日本政府も公式には発表していない。ところが2001年の真珠湾攻撃から60年目の年に、幾つか…
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米国大使館に自ら訪問した天皇の姿が国民に与えた衝撃
マッカーサーが東京に着任してから、天皇とはいつ会うのか、それはマッカーサーが天皇を呼び出すのか、それとも天皇の側から訪問を打診するのか、あるいはマッカーサーは会わずに戦争犯罪裁判の被告に指定するのか…
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現在の立ち位置を確認する上で必要なのは「自責の念」
今年(2024年)は、昭和が誕生してから99年である。その昭和が終わってからは、35年である。昭和は〈昭和20(1945)年〉を挟んでそれまでを近代史、そしてそれ以降を現代史がスタートしたという分け…
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マッカーサーが急がせた「人権指令」
東久邇宮内閣の辞表提出は、極めて正直であった。連合国軍総司令部(GHQ)の総司令官であるマッカーサーから、日本民主化の具体的方針が相次いで示された。その基本方針は、これまでの日本軍国主義の解体、次い…
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投書に著名人ブレーン、新時代を目指した東久邇宮内閣
東久邇宮首相は、国民に向けてラジオで、自らの所信を明らかにすると言って、「大詔に御示し遊ばされた陛下の思召を奉戴し、一糸乱れざる足並みを以て、難局の打開に進む」という一節を声高に述べた。天皇制国家を…
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終戦直後に皇族内閣が誕生した理由
占領期間の現代史を俯瞰するとき、GHQ(連合国軍総司令部)の総司令官マッカーサーについては、まだまだこれからも触れていく。ここでその占領政策に対応する日本側の政治機構はどう対応したのか、その史実を多…
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マッカーサーに告げ口し媚びた日本人の投書
マッカーサー宛ての書簡に共通しているのは、戦争を進めた軍事政権への怒り、政府が戦争の実態を国民に知らせていないこと、さらに自らの周囲にいる要領の良い人を名指しで告げ口していることなどである。中には、…
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日本国民はマッカーサーを新しい指導者としてあがめたのだった
日本近代史の終焉は、昭和20(1945)年8月15日である。むろんこの日は軍事的に敗北を認めたわけだが、政治的には9月2日の東京湾に停泊するミズーリ号上での降伏文書への調印である。日本はGHQ(連合…