芸能界と格闘技界 その深淵
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下戸の野口修が山口洋子の「姫」に足しげく通った理由
野口修はこのとき34歳、働き盛りの敏腕プロモーターである。日大芸術学部卒、剛柔流空手道部出身の白羽秀樹を「沢村忠」と命名し、二人三脚で新興のプロスポーツ「キックボクシング」を走らせていた。 「…
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山口洋子と姫のホステスたちはキックボクシングに熱狂
後年「銀座の高級クラブ」と称された「姫」だが、少なくともこの時代までは庶民的な雰囲気があったという。事実、マダムの山口洋子自身、発展途上の若い作家や役者、芸術家に「お金のことは気にしなくていいから、…
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TBS「0スタジオ おんなのテレビ」で立川談志とコンビ司会
1968年9月30日、新番組「0スタジオ おんなのテレビ」(TBS系)がスタートした。 ■帯番組は「月曜日」が肝 山口洋子は立川談志と組んで月曜の司会に抜擢された(その後、金曜も兼任)…
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“民放の雄”TBSが昭和43年、午後のワイドショー戦線に参戦
日本テレビ放送網に次いで、1955年4月1日、民放初のラジオとの兼営局としてテレビ事業を発足させたのが、ラジオ東京テレビ(現・TBSテレビ)である。 開局から2カ月後にスタートしたのが、ボク…
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神楽坂浮子は“銀座の女”をテーマにして作詞家デビューした
深川出身の神楽坂浮子は、芸者として活動するかたわら、歌手になろうと作曲家の古賀政男に弟子入りした変わり種である。程なくして「私なんだか変テコリン」(作詞・吉川静夫/作曲・清水保雄)でデビューした、い…
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夜の銀座はクラブ「姫」の時代 作詞家・山口洋子の始まり
銀座のクラブ「姫」をオープンした山口洋子は、後年になって老舗店のマダムについて次のように書き残している。 《雨あがりのある夕刻、雨ゴートに青い傘を持って歩いてくる「お染」のママとばったり行きあ…
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クラブ「姫」は安藤昇の愛人だった時の愛称から名付けた
山口洋子が安藤組組長の安藤昇と出会ったのは、彼女が東映の女優だった20歳のときである。安藤が実業家の横井英樹襲撃事件に関与した容疑で警察に追われると、洋子は当時住んでいた代々木のアパートに安藤をかく…
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山口洋子は東映ニューフェイスからヤクザの愛人に…
山口洋子は1937年5月10日、名古屋市に生まれた。料亭を経営していた資産家の父と、仲居をしていた母との間に生まれた私生児だった。高校を1年で中退すると、名古屋市内に喫茶店「洋子」を開業する。16歳…
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新参の山口洋子は旧態依然とした夜の銀座の革命児だった
昭和30年代の銀座は有名店の時代であり、すなわち店の顔であるマダムの時代だった。 「サンスーシー」(西川とし)、「らどんな」(瀬尾春)、「ルパン」(高崎雪子)、「セレナーデ」(野中花)、「エス…
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銀座の高級クラブ「姫」のマダム・山口洋子の“多面多才”
1980~90年代にかけてリーグ優勝13回、日本一8回と黄金時代を迎えたプロ野球・西武ライオンズ。所沢の西武球場(現・メットライフドーム)で日本一を決めると、選手やスタッフはまず恒例のビールかけがプ…
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戦時中、海外に駐留する日本軍の慰問興行から芸能プロに
現代の芸能プロダクションは、非常に大まかに分けて5つの潮流に区分けされる。 ①明治期の自由民権運動から勃興した演歌や、同時期に派生した浪花節(浪曲)をルーツとしたプロダクション。 ②大正…
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児玉誉士夫の要請で上海で興行会社起業 淡谷のり子ら招聘
中国最大の都市、上海。総人口は2419万6800人。首都北京を抜いて中国国内第2位(1位は重慶)。世界第3位となる。 野口進一家が移り住んだ1938年の上海は、英米日の共同租界とフランス租界…
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「夜空」でレコ大受賞の五木ひろしは野口プロ所属の第1号
1973年の大晦日。帝国劇場に詰めかけた2000人超満員の観衆はもちろん、全国のお茶の間の視聴者は、「日本レコード大賞」の発表を今や遅しと待っていた。 午後8時30分。司会の高橋圭三の手に封…
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「キックの鬼」こと沢村忠を生んだ“名プロモーター”野口修
2021年3月26日。キックボクシングの第一人者にして昭和の格闘技界のスーパースター、沢村忠が千葉県内の病院で亡くなった。享年78。 代名詞ともなった必殺技「真空飛び膝蹴り」で敵をなぎ倒し、…