山口洋子は東映ニューフェイスからヤクザの愛人に…
山口洋子は1937年5月10日、名古屋市に生まれた。料亭を経営していた資産家の父と、仲居をしていた母との間に生まれた私生児だった。高校を1年で中退すると、名古屋市内に喫茶店「洋子」を開業する。16歳の少女にまとまった開店資金などあるはずもなく、「妻に死なれた50歳ぐらいの男やもめ」が支援者だったことを、後年雑誌のインタビューで明かしている。繁盛していたという店だが、「いくらお店がはやっても、しょせんは他人のお店」と、洋子は3年で経営から手を引いた。パトロンに嫌気が差したのだろう。
水商売から足を洗った洋子は、1957年、1000人に1人の超難関「東映ニューフェイス4期生」に合格。同期には佐久間良子、山城新伍、室田日出男がいた。同期の佐久間良子は合格してすぐ、東映映画「白蛇伝」(監督・藪下泰司)のカメラテストを受け、翌年「美しき姉妹の物語 悶える青春」(監督・佐伯清)でデビュー。同年「台風息子」で主演の江原真二郎の相手役に抜擢され、雑誌「平凡」の女優人気投票で10位にランクインするなど、早くもスター街道を歩んでいた。
一方の洋子はというと、いつまで経っても芸者役や通行人役、会社の事務員役などその他大勢の端役しか回ってこない大部屋女優。カフェの女給役が当てられたときには、「なんで、カフェをやめて役者になったっていうのに、ここで女給に舞い戻んなきゃなんないのよ」と癇癪を起こしたという。結局、思ったほど稼げない現実から、たったの2年で廃業している。しかし、その東映時代に数奇な経験をしている。自身を主人公にした私小説の一節である。