蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
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(23)私の戯作を読んでほしいんです
西村屋与八は湯飲みに残った茶を、またズズズッと下品な音をたて呑み干した。 「女郎に戯作の値打ちがわかろうはずもなかろうに、不思議と吉原で評判のいいのは売れましたな」 重三郎、女郎云々の…
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(22)与八がこの大きな本屋の若主人
本屋の前は人だかり、えらく繁盛している。 重三郎、訪ねた本屋が思ったよりずっと立派なのにも驚いた。気忙しそうに行き来する老若男女、その誰もが店の前で「おやっ」という顔になる。眉間の皺が消え、…
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(21)軒先に吊られた浮世絵が揺れる
〈第2章〉 吉原の本屋 重三郎は懐かしい絵を手にした。羽の生えた禍々しい化け物が飛び回っている。 「ダメだ、こりゃ」 重三郎は赤面した。耳の奥で義兄の大笑いが響く。 「…
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(20)これはこうもりの風流踊りか?
重三郎と利兵衛叔父は九郎助稲荷から京町二丁目を抜け仲の町通りに出た。 妓楼の店先には早々とあかりが灯り、お上臈を冷やかす遊客の姿もちらほら。 重三郎は叔父から、父が営んでいた引手茶屋…
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(19)お上臈の唇の感触が生々しい
重三郎は、さえない色を浮かべて歩を進めている。手には、さっき貸本屋から仕込んだばかりの戯作。 貸本屋がこなかったら、あのまま──。お上臈の唇の感触が生々しい。もう一度、かげろうを訪ねたいよう…
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(18)濃醇な女の匂いがたちのぼる
母の実家を訪ねた重三郎を、近所の女房たちが取り囲む。太った女が険しかった表情を改めた。 「娘さんが戻ってすぐ、あたふたと越していったよ」 煮売り屋の奥からも、こめかみに小っちゃな膏薬を…
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(17)女三界に家無しさ
かげろうは膝元に転がっていた煙管を拾いあげると、雁首を使って煙草盆を引きよせた。 「でもまあ、女子の戯作者や絵師なんて、あんまり耳にしたことはありゃしない」 何事につけ女は損だ。才があ…
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(16)二畳しかない部屋に紅摺り絵
重三郎はたった二畳しかない小部屋にあがった。 擦り切れた畳表、三つ折りにした蒲団。柱に貼られた紅摺り絵は人気女形の中村粂太郎、石川豊信が描いた作だと目星をつける重三郎だった。 隅に積…
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(15)女体の匂いが鼻先をくすぐる
かげろうは重三郎にすり寄ると袖を引いた。 「立ち話もナンだし。よかったらウチへくるかい?」 白粉だけでなく煮詰めたような女体の匂いが鼻先をくすぐる。その鼻のすぐ下にお上臈の濡れた双眸。…
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(14)津与さんには世話になった
重三郎が呼び止めた貸本屋、前の方からも手招きされたようで、大きな荷を担いだまま右往左往している。 「こっちこっち」 女の声がして、貸本屋はそっちへ歩をやりかける。 「与八っあん!…
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(13)貸本屋を呼び止める声がこだまする
線香の煙がゆっくりとたなびく。重三郎は供養塔に頭をたれ、手をあわせた。 先日、足抜けを企てたお上臈が激しい折檻の末に果てた。亡骸が吉原にほど近い下谷三ノ輪の寺に葬られたと知り、重三郎は居ても…
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(12)日課は燕の落とし物の掃除
燕の子が、かまびすしい。重三郎はその下でせっせと箒を使っている。 親鳥は雛の口に餌を放り込んでやる。雛が静まるのは束の間、すぐまたジージーとヤスリを摺りあわせたような濁声をたてた。親鳥は一瞬…
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(11)白日の吉原に遊女の哀しい声が響く
灰褐色の土煙が舞う。 白日の吉原、仲の町通りを若い遊女が駆けてきた。肌襦袢一枚、裸足の女は必死でわめいている。だが、それは言葉にならない。悲鳴とも呪詛ともつかぬ、おぞましく哀しい声が響く。 …
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(10)母の髪にフワリ花びら
ペッ。義兄は掌に唾をくれると鬢に撫でつけた。 「ちょっくら、いってくるぜ。親父には黙ってろよ」 いっちょ前の色男気取り、叔父のいう「吉原で育ちゃマセて当然」そのもの。どうせ良からぬ遊び…
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(9)お上臈にまで母の面影を求め
叔父は裾の埃をはたくと帳場に戻っていった。重三郎は叔父の後ろ姿を見送った視線を格子の外へやる。 「あっ」 視線の先に年増のお上臈さん。着物の衿、首の後ろの衣紋をグイッと抜き白い柔肌が覗…
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(8)吉原で育ちゃマセて当然
重三郎は叔父のもとで暮らし始めた。両親と離れ離れになった少年には翳が宿った。友人といえば本、頁を繰るのに飽いたら見るともなく外を見る。引手茶屋「駿河屋」が面する仲の町通りは吉原を貫く大路だ。 …
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(7)これっきり、父はいなくなった
重三郎は父の重助がいなくなった日のことをよく覚えている。 あの日、重三郎は寝っ転がって絵草紙を読んでいた。楠木正成の最期、湊川の決戦を描いた画に胸が躍る。 廊下を渡る音がして、眼を上…
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(6)重三郎は絵草紙ばかりか漢籍も
〈第1章〉 本屋の生い立ち 差し込む光がまぶしい。少年は長い睫毛を瞬かせ、蒲団の中で身体を伸ばした。 チチッ、チュンチュン。雀のさえずりが妙に大きい。いつもは煮炊きや掃除、洗濯…
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(5)恋女房が武家を不意打ち
客人たちを妓楼へ送り終えた蔦重、叔父が営む駿河屋の勝手口からすっと身を滑らせた。月光と軒灯で足元は明るい。提灯の代わりに女房への手土産のきび団子をさげている。 宴席の勘定は自腹、宴を盛り上げ…
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(4)おのれ田沼意次め
若い武家の憤怒は尋常にあらず。こめかみには癇性の証、うねうねと血管が浮き出ている。 「おのれ田沼意次め」 「お静まりを」 田沼の名が武家の口を衝いた途端、郎党たちは辺りに眼を配り…