「奥東京人に会いに行く」大石始氏
「東京」というと、近代的で華やかな銀座や賑やかな浅草を思い浮かべるが、山梨県との境にある奥多摩にはまるでマチュピチュのような空中集落が存在し、東京都の島である新島では悪霊がさまよう日があり、島民は早く床に就くという。本書は、そんな東京の知られざる風習や歴史、人の暮らしをつづったノンフィクションである。
「自分が暮らす東京という場所を調べ始めたきっかけは、有名な吉祥寺の焼き鳥屋『いせや』の跡地で、旧石器時代の焼き場が発見されたというニュースです。ごくありふれた日常と1万5000年前がつながる面白さに、好奇心を刺激されました」
現代人が焼き鳥を頬張る場所で、原始人たちもマンモスを焼いて、バーベキューを楽しんでいたのかもしれない。
不思議な歴史の一致もあれば、驚くほど変わってしまった場所もある。羽田空港のある、かつて羽田村だったエリアだ。
「平氏に敗れた源氏の落ち武者7人が、平安末期にやってきて開村したといわれています。漁師町として栄え、明治期には鉱泉が湧き、旅館が立ち並ぶ一大歓楽街でした。飛行場ができて漁師町の面影はありませんが、羽田節という、漁師が祝いの席などで歌っていた曲は残っています」
一方、羽田に面した東京湾も、時代とともに絶えず変化してきた。江戸時代前はそれほど魚もいなかったが、人口爆発が起きた江戸時代の生活排水によってプランクトンが増えると、急に魚の種類が増えたという。当時、江戸庶民の胃袋を支えるため、東京湾には多くの漁師がいてそれぞれが漁場を守っていた。
「そこへ家康が、自分の魚を捕らせるために、大阪の佃村から漁民とその家族三十数人を連れてきた。そしてどこで漁をしてもいいという特権を与え、名字、帯刀を許したのです」
ただの漁民ではなく、東京湾の監視役も兼ねさせていた海賊衆ではないかともいわれているが、当時の江戸の漁師たちは、大阪からやってきた“特権漁民”を苦々しく思っていたに違いない。
そんな彼らは「自分たちの土地が欲しい」と隅田川の中州に人工島を造設し、佃島と名付け移り住んだ。江戸の一部でありながら、異質な文化とコミュニティーは、島の中で何百年も引き継がれていく。
「その一つが、東京都の無形民俗文化財にもなっている『佃島の盆踊り』です。江戸時代、盆踊りは他の地区でもやっていたようですが、ずっと東京で続いているのは佃島だけでしょう。なぜ続いてきたのか。佃島は地形的に上流からの無縁仏が流れ着く場所でした。関東大震災や東京大空襲では多くの仏が流れてきた。その死者を供養するために踊りが必要と考えたのではないでしょうか。今でも佃では仏壇に手を合わせてから踊るのです」
佃の人々は、見知らぬ仏であっても丁重に供養した。それは東京の南、新島でも同じである。江戸時代、牢屋がいっぱいとなり、大島・新島は軽犯罪、三宅島は破廉恥罪、八丈島は思想罪と罪人の多くは島流しにされた。慣れない島暮らしで餓死者も少なくなかったというが、新島には島民と流人の共同墓地があり、今でも流人の墓に花が供えられる。
「オリンピックを機会に多くの方が東京に来るでしょうが、東京の精神に触れる場所にも足を延ばしていただきたいですね」
(晶文社 1700円+税)
▽おおいし・はじめ 1975年、東京都生まれ。武蔵野美術大学映像学科卒業後、レコード店店主などを経て音楽雑誌編集部に在籍。約1年間の海外放浪後、フリーライターに。著書に「ニッポン大音頭時代『東京音頭』から始まる流行音楽のかたち」など。