風野真知雄(作家)
2月×日 子どもの頃から、死にたくないという気持ちが強く、どうやって恐怖を乗り越えようかと、始終考えてきた。中年以降は、諸行無常を痛感したうえでの諦観と、それに甘さを加えるセンチメンタリズムと、このあたりが落としどころかなと思ってやってきた。いわば泣き節。
だが、10年ほど前に量子論にハマったら、やっと納得した人生観が危うくなった。数学がわからないで読むから、いい加減な理解なのだが、それでもこの世のいちばん小さな単位群である量子が持つ特徴が、きわめて不届きな、不気味なものであることはわかる。なにせ、誰も見ていないときは月がそこになかったり、生と死が重なり合った猫がいたりするのだ。かくて、毎年、数冊は関連書物を買うということをつづけてきた。
最近買ったのは、このショーン・キャロル著「量子力学の奥深くに隠されているもの」(塩原通緒訳 青土社 2800円+税)。量子論の核には、いまだ解決できない認識問題があって、その解決策の1つに多世界解釈という奇怪な理論があるが、この本はそれを大真面目に論じている。しかも読み終えたばかりのいまは、やっぱり多世界解釈ありだよなという気になってしまう。著者によれば、この解釈こそシンプルかつエレガントで、自分のコピーが絶えず生み出されている悩ましさに慣れるべきらしい。
2月×日 勢いにまかせてカルロ・ロヴェッリ著「時間は存在しない」(冨永星訳 NHK出版 2000円+税)を読む。極小を扱う量子論で極大の時空を考えると、時間の流れまで、常識からはみ出してしまう。当然、時間は過去、現在、未来と進むべきだが、量子宇宙論になると、時間は速くなったり遅くなったり、繰り返されたり、逆戻りしたりする。この本によれば時間には方向がない、つまり時間は錯覚みたいなものらしい。
未来は枝分かれするわ、時間は錯覚だわでは、諸行無常もへったくれもないではないか。かくてわたしは齢70を前にして、世界観の崩壊と死の恐怖に怯える毎日である。