荻原浩(作家)
1月×日 下山進著「アルツハイマー征服」(KADOKAWA 1800円+税)を読む。百余年前のアルツハイマー病の発見から、その研究、治療法や薬の開発が現在までにいかにして進められてきたかを多分野の人々への取材から解き明かしていくノンフィクション。
僕はかつて若年性アルツハイマーを題材にした小説を書いたことがある。「明日の記憶」というその小説は文学賞をもらい、映画化もされた。だから、この小説を僕の出世作と言ってくれる人もいるのだが、僕自身は、患者でも関係者でもないのに実在の病気をフィクションで描いたことに、後ろめたさを感じていた。映画のおかげでそれなりに話題になればなるほど。
でも、この小説が縁で、患者さんとご家族、実際の医療現場の方々に会う機会を得て、温かい言葉、過分な評価をいただいてからは、引けていた腰を据え直した。講演を積極的に引き受けて、その講演料を全部、患者の家族会に寄付する、そんなことを何年も続けていた。
当時、知り合ったお医者さんにこんなことを言われた。「あと数年もすればアルツハイマーの特効薬ができますからね。不治の病というのは過去の話になるでしょう」
僕の小説が過去のものになると言われたのに等しいが、早くそうなって欲しい、と心の底から思ったものだ。だが、あれから10数年経つのに、いまだに特効薬どころか抑制薬もほとんど進化していない。なぜなんだろう。
「アルツハイマー征服」にその答えがあった。あのお医者さんが「あと数年」と言っていた特効薬のその後の運命、さまざまな研究者と医者の挫折、自身の発病、捏造事件、製薬会社の盛衰……アルツハイマーとの一進一退の闘いは、ようやく2021年に根本治療薬が承認されそうな段階にきた。今年初めに刊行されたばかりのこの本の記述は、そこで終わっている。
科学の進歩のすべてが善だとは思わないが、人の命を救う科学には無条件で期待したい。人類はコロナもきっと克服できる、そう思わせてくれる本だ。