「中世ヨーロッパ」ウィンストン・ブラック著 大貫俊夫監訳
コロナ禍のイギリス各地でペスト医師が出現し、住民たちを不安に陥れているという。しかしこれはうわさの域を出ず、デマの可能性が高そうだ。ペスト医師とはペスト専門の医師で、鳥のようなクチバシ型マスク(中には香料や薬草が入っている)を着け、肌を外気にさらさないように帽子とローブで全身を覆うという異様ないでたちをしている。こんな人間がいきなり現れたら驚くが、人々の不安な心理が生んだうわさといえよう。
ペスト医師は、ヨーロッパの中世期に猛威を振るったペスト(黒死病)を象徴する有名なアイコンとして知られる。しかし、このアイコンが最初に登場したのは17世紀初頭で、中世はとっくに終わっている。つまりフィクションである。では、なぜ中世の象徴として語り継がれてきたのか。その背景には中世=暗黒時代という抜きがたいイメージがある。
本書は、そこから紡ぎ出されたペスト医師を含む11のフィクションを取り上げ、それぞれのフィクションの概要と成立過程をたどり、実際に起きたことを一次史料によって実証している。
たとえば、中世の人々は地球は平らだと思っていたというフィクション。これにはコロンブスの新大陸発見によって初めて地球が丸いことが実証されたという話も付随する。しかし事実は、「古代および中世の学識者で地球は平らであると信じていた者はほとんどいなかった」。しかも地球球体説を唱えたのは、ほとんどが修道士などのカトリック教会の一員だった。カトリック教会といえば、ガリレオを異端審問にかけた「科学の敵」といったイメージが強いが、実際には現在の科学に連なる多様な研究がカトリック教会内部で行われていたのである。
なぜそうしたフィクションがまかり通ってきたのか。そこにはギリシャ・ローマの黄金時代を経て中世という暗黒の時代になり、ルネサンスで再び明るい時代を迎えるという図式がある。それには中世は暗く、貧しく、不潔な時代でなければならないのだ。既成概念を覆す、刺激的な本だ。 <狸>
(平凡社 3520円)