欧米の「ロックダウン」と日本の「外出自粛」…個人と全体の問題を考える
多くの個人にとって風邪に過ぎないコロナが、全体としては多くの重症者や死者をもたらし、医療機関に過大な負荷をかけ続けている。その相反する状況の中、日本や世界がどのように感染対策してきたかを振り返りながら、個人と全体の問題を考えてみたい。
日本のコロナ対策は、大枠としては個人の判断に任されてきた。あくまでも「自粛」という形で対策が進められているものが大部分である。これは「ロックダウン」が行われた欧米と根本的に違うものである。ロックダウンは、国民に外出制限を義務付け、そこに国民の選択の余地はない。法的な契約関係である。それに対して、自粛にはあくまでも国民の自発的な対応が求められ、外出するかどうかはあくまで国民の判断の結果ということになる。
この違いのひとつは、ロックダウンは道徳的、倫理的な判断を国がしているのに対し、自粛は国民側がその判断をしているということだろう。国が決め、国民が従うのが前者であり、国の勧めに基づいて国民が決めるのが後者である。ここには何やら不思議な面がある。インフォームドコンセント、人生会議など、欧米から日本の医療にもたらされたものは、個別の意思に基づく自己決定がその基盤である。個人が重視され、個別の決定を重んじる欧米と、個人より世間の影響が大きく、個別の決定を重く見ない日本というのが背景にある。しかし、コロナの対策として現れたものは逆である。国の決定を重視する欧米のロックダウンと、個人に判断をゆだねる日本の自粛ということである。