五木ひろしの光と影<21>五木ひろしは2年連続栄冠逃し…厚かった「ナベプロの壁」
■あいつらさえいなければなあって
「初年度から絶対取らせるつもりだったけど、『今回は新人みたいなもんだから』って周りに言われて取れなくてさ。じゃあ次こそって思ったのに次の年も取れなかった。全然届かなかった。悔しかったねえ。厚い壁だと思った。だって、みんな必死でやってたんだよ。徳間音工のスタッフも、ウチの社員も、五木本人も頑張ったし、『姫』のスタッフだって……。でも無理だった。この頃はナベプロが邪魔だった。あいつらさえいなければなあって、そればっかり考えていたね」
「ナベプロ」……当時の芸能界の最大勢力、渡辺プロダクションである。つまり野口は「ナベプロの攻勢が強すぎて、思うように営業活動ができなかった」と言いたいのだ。五木ひろしが初めて大賞候補曲にエントリーされた71年は森進一、小柳ルミ子と2人のナベプロの所属歌手もエントリーされていた。72年に至っては、小柳ルミ子、沢田研二、天地真理と3人も立ちはだかった。すなわち「彼らの存在が邪魔だった」のだ。
これまで賞レースにはさほど見向きもしなかった渡辺プロダクション社長の渡辺晋、副社長の渡辺美佐だったが、大賞受賞がレコード会社のみならず、事務所やグループ全体にもたらす利益が尋常でないことにもはや座視できず、この前後から社を挙げて積極的に賞取りに向けて営業をかけるようになっていた。そのナベプロをもってしても70、71、72年と3年連続でグループと無関係の歌手に大賞を奪われていた。焦りもあったはずだ。それが結果的に、審査員であるマスコミや音楽評論家へのプレッシャーにつながり、独立プロである野口プロにも波及していたのである。ただし、野口修は「事態は決して悪くない」と見ていた。
「ウチにだってチャンスはある」
73年初頭、野口修は野口プロモーションの社員を前に高らかに宣言した。
「いいか、今年は3つのタイトルを取る。3つのタイトルだぞ。いいか。絶対取る」 =つづく