Jリーグを作った男「即断即決のできるリーダー」森ケンさんを悼む
■Jリーグに先駆けて地域密着を実現した
1986年に森ケンさんは東京・大手町の三菱重工の本社から名古屋へ転勤となるが、電話をすればいつでも気軽に取材に応じてくれた。
JSLでは読売クラブ、日産、全日空などで多くの選手が〈プロ〉と変わりない雇用形態だった。森ケンさんは、そうした実態をきちんと調査してアマチュアリズムの限界を世に知らしめた。それが西ドイツ(当時)から帰国した奥寺康彦氏と木村和司氏を「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」としてJFAに認めさせることに繋がった。これはプロ化への明確な道筋となった。森ケンさんの功績だった。
当時は、まだまだプロ化へのアレルギーがあった。1986年メキシコW杯に続いて1988年のソウル五輪もアジア最終予選で敗退したが、後年になって木之本氏は「どちらかでも勝って本大会に出ていたら、アマチュアリズムの信奉者から『ほら、プロ化なんて必要ないだろ』と反対されてJリーグは誕生しなかったはずだ」と述懐した。
1988年には、第一次活性化委員会のメンバーでまとめた〈プロ化〉の理念と実現するための原案となる最終報告書をJFAの理事会に提出。森ケンさんは「名古屋と東京での二重生活ではプロ化のプロジェクトを進めるのは困難」と判断。自ら総務主事を辞し、後任には(古河電工の)名古屋から東京に異動する川淵氏を抜擢してプロ化を託した。