1横綱1大関時代には望まれない 土俵の名脇役だった長谷川ら“最強関脇”の後継者
関脇で強ければ大関になるから「名関脇」はいない、という意見がある。確かに「名関脇」と称される力士は少ないが、その一人が「戦後最強の関脇」と呼ばれた長谷川(のち秀ノ山親方)だった。
幕内在位69場所のうち30場所も三役を務め、関脇在位21場所は今も琴光喜に次ぐ歴代2位タイだ。
1972年春場所、12勝で初優勝した。その前2場所は関脇で8勝、10勝しており、3場所30勝は当時の大関昇進例に見劣りしない。しかも優勝とあれば十分と言えた。だが、当時は大関が4人(琴桜、清国、前の山、大麒麟)いたこともあって機運は盛り上がらず、その後も8勝、5勝で大関とりは消えた。
76年夏場所中の引退記者会見で、大関になれなかったことを聞かれて名言を残している。
「昇進に運、不運はつきもの。心の中で大関になれたと思っているんだから、それでいい」
引退後もよく「『最強の関脇』なんて、かえって恥ずかしいよ」と言っていたが、平成に入って佐渡ケ嶽部屋の後輩、琴錦(現朝日山親方)が「後継者」となる。
91年秋場所、98年九州場所と2度も平幕優勝をやってのけ、関脇在位は同じ21場所。三賞18回は長谷川の8回をしのぐ。
力士の大型化時代に177センチ、142キロの体で、鋭い立ち合いからの突き押しや、もろ差しなどの鮮やかな技はスピード感にあふれ、「F1相撲」と呼ばれた。