保阪正康 日本史縦横無尽
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山崎晃嗣は査察を二重帳簿で乗り切るも、女性秘書によって税務署に筒抜けに
山崎晃嗣の光クラブは、大胆にも資金のゆとりのある会社や財産家から高利で資金を集め、それを零細企業にそれ以上の高利で貸し付けるという初歩的なヤミ金融会社であった。 その取り立ては情け容赦なく、…
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「光クラブ」設立時はヤミ金融が横行した時代 1カ月の金利1~3割で貸していた
光クラブの山崎晃嗣に話を戻すが、山崎が体系立てようと試みた数量刑法学が学術的に意味があるとかないとかの判断はむろん私にはできない。ただこうした人間の感情を無視した、まるでロボットを扱うような視点は全…
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殴る蹴るのリンチを受けた学徒兵たち 戦後社会での「復讐」の実態
学徒出陣で軍隊生活を体験した大学生は、戦争が終わって学園に戻ってきた時に、大体は精神的に傷ついていた。この場合の「傷つく」というのは価値観の逆転にということなのだが、戦争末期の軍内の空気は異様だった…
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山崎晃嗣は人間の感情を数値化して刑を決める「数量刑法学」の確立に野心を抱いていた
山崎晃嗣は東大に復学してからは、全ての科目で「優」を取ることと、誰もが手を染めることのない仕事に乗り出すことを自らに課した。それが学徒出陣で軍内で理不尽な思いをしたことの仕返しでもあった。もし山崎が…
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山崎晃嗣と三島由紀夫、東大の同級生はそれぞれの道を歩んだ
光クラブの学生社長である山崎晃嗣について、もう少し記述していく。教育訓練中に親友を上官の私的制裁で失い、そして終戦時には卑劣な上官たちの軍内の軍需物資横流しの責任を負わされ、収監までされるという体験…
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山崎晃嗣は上官の命令で物資を隠匿 ただ一人有罪判決を受ける
光クラブを起こした山崎晃嗣は軍内でもう一つ濡れ衣を着せられ大変な目に遭っている。学徒出陣の大学生は20歳を越えていたにせよ、社会的経験は極めて薄かった。軍隊内部で生きるということは、そうした社会的未…
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水風呂で学徒を死なせ隠蔽工作を命じた教官
光クラブを経営していた山崎晃嗣は、真に心を許した幼友達には戦争から帰ってきた後に本音を漏らしている。この幼友達も一高、東京帝大にと進んだのだが、在学中は親しくは交わらなかった。加えてこの友達は、弁護…
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「光クラブ事件」で自殺した東大生・山崎晃嗣はなぜ人格が一変したのか?
学徒出陣から80年、すでにその体験者も今は100歳を越えるのだから、彼らの体験の継承も容易ではない。私はかつてこの実態を、昭和史探究の一環として調べたことがあった。折々にその実態については紹介してき…
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学徒兵に「知性や理性は捨てろ。戦う機械になれ」という東條英機の要求
東部第6部隊は、正式な部隊名は近衞第2師団第3連隊補充隊といった。天皇の直接の栄誉を受ける部隊でもあった。そのためもあったのだろう、東條英機首相兼陸相が学徒の激励に訪れ、皇軍の範たることを要求したの…
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東條英機の訓示は、神宮外苑での壮行会より、さらに神がかりに傾いていた
学徒出陣の大学生は明確な数字は分からないにしても、防衛庁(省)の戦史部の刊行書などでは、およそ9.6万人と記載されている。とにかく現役の大学生の80%ほどが入隊したわけだが、その内訳はどうなるのだろ…
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「9.6万人」の出陣学徒は「一億総特攻」の中軸だったのか
明治大学の場合はどうだったか。やはり調査グループは、明治大学史紀要などを集めて、数字の確認を急いだという。 昭和61(1986)年9月30日に発行された第6号が学徒兵の調査を行ったとあり、あ…
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多くの学生に共通する「幸なれ、我が前途」の悲劇
慶応義塾大学の学部学生は、どの程度徴兵検査を受けたのか、その比率について「慶応義塾百年史」(昭和39年6月刊)では96%に及ぶとある。学徒出陣組だった慶応出身者の調査グループの中には、昭和60年前後…
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学徒出陣は天国と地獄を同時に体験するようなものだった
慶応義塾の場合を見ていくと、やはり「慶應義塾百年史」に、学徒出陣について触れられている。この書は昭和39(1964)年6月に刊行されたのだが、いわゆる勅令第755号によって徴兵検査を受けた学生は、大…
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早稲田大学の学徒出陣 終戦時に文部省が資料を焼却した可能性
早稲田大学の学徒出陣については、当時大学側でも資料の整理を独自に行い、それが百年史の刊行時に明らかにされたのであろう。昭和18年の勅令第755号により、学生の徴兵時期が短縮され、いわば学徒出陣が実施…
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学徒出陣など昭和史の把握に努める一橋大学出身者たち
その他の大学について、このグループは精力的に資料を集め、その実数を調べてもいる。といっても各大学の編年史を基に見ていく以外にさしあたっての方法はなかった。東京帝国大学の実数が明確ではなかったように、…
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出陣学徒の死亡数は何人で、どんな戦闘に参加したのかを調べようとする動き
学徒出陣の学生数はどの程度であったのか、その数字は現在に至るもまだ正確には把握されていない。全体に学徒出陣そのものが現役の兵隊数が少ないというので、間に合わせのような形で召集されたと言える。そうして…
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死刑判決を受けて初めて自分が人身御供にされたことに気づいた
この島での日本軍による惨殺行為を裁くBC級戦犯裁判は、昭和21(1946)年3月11日からシンガポールで開かれた。もし日本側が裁判もなしに現地の住民を殺害していたとなれば、日本軍の幹部将校や参謀など…
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「全員を死刑にするべき」と譲らなかった陸軍、海軍は手ぬるいと批判
このBC級戦犯裁判の資料は、イギリス側から日本に渡されていたのだが、一般に公開されるには40年余の時間がかかった。多くの資料がそれぞれの国から戻され、関係者の証言によるとほとんどが法務省の地下に眠っ…
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将校たちは「内通者がいる。殺害しろ」と命令を繰り返した
インド洋のベンガル湾の南にアンダマン・ニコバル諸島がある。この諸島の一つの島は、ニューギニアの東部、あるいはオーストラリア方面の制圧のために極めて重要で、太平洋戦争の開始から間もなく、日本軍はこの島…
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根拠もなく90人もの現地住民が殺害された イギリスは徹底的に調査
学徒兵Kはシンガポールのチャンギー刑務所で、BC級の戦犯裁判を受けた。その裁判は日本側の証拠も不十分な上に、住民を惨殺した軍人や兵士が問われるべき罪状を、通訳に過ぎなかったKに責任を負わせる形になっ…