理想の花嫁 イーデス・ハンソン 文楽人形遣いとの破局
<1965年9月>
9月17日、大阪は台風24号の直撃を受けていた。風雨が吹き荒れる中、イーデス・ハンソン(当時26)はスーツケースをひとつだけ持って東住吉区の家を出た。この日、2年3カ月前に結婚した文楽の人形遣い・吉田小玉(同31、後に5代目吉田文吾を襲名)との離婚が正式に成立していた。
ハンソンが米国から来日したのは60年9月、オクラホマシティー大2年の時。4番目の兄がエール大から交換教授として大阪大に赴任。以前から日本の文化に興味があったハンソンはチャンスとばかり、大学を休学して兄の家族と一緒に大阪に来たのだった。
10カ月後、兄は任期を終え帰国したが、ハンソンはそのまま大阪に残った。この地の雑多な雰囲気にすっかり魅せられてしまったのだ。
しばらくしてハンソンの文楽通いが始まる。そのうち楽屋にも顔を出すようになり、若手の小玉との交際が始まった。ちょうどその頃、ハンソンは「関西弁を話すけったいな米国人がいる」とテレビ番組で取り上げられ注目を集めていた。間もなくテレビやラジオに引っ張りダコになり、そのままタレントとして活躍するようになった。人気が急上昇する中でハンソンは小玉と結婚。家を購入し、小玉の両親と妹を呼び寄せ、家族5人の生活がスタートした。