理想の花嫁 イーデス・ハンソン 文楽人形遣いとの破局
「いくら人気が出ても増長することなく、夫に尽くしていた。文楽の楽屋ではだれにでも三つ指をついて挨拶。小玉の師匠の身の回りの世話までしていたんです」(元芸能記者)
上方の大御所俳優、辰巳柳太郎が「普通の日本人以上に日本的」と絶賛するほど。
「もっとも理想的な国際結婚」とまで言われながら、なぜ破局したのか。
「2人とも性格の相違を理由に挙げていたが、根はもっと深い。結婚してからというもの、小玉が仕事にあまり身が入っていないようにハンソンには映ったんです」(同)
家にいると、小玉は部屋に閉じこもって好きなジャズをずっと聴いていた。文楽の勉強に励んでいるようにはとても見えなかった。
「収入も10倍以上違い、家の購入費用などもすべてハンソンが出した。それが自分の役目と彼女は割り切っていたが、そのせいで小玉は次第にナマケ癖がついてしまった。一緒にいることが小玉にとっても不幸じゃないかと考えるようになるんです」(同)
離婚してもハンソンが米国に戻ることはなかった。活動の場を東京に移し、大橋巨泉司会のバラエティーなどに出演。大阪と同様、人気を博したが、70年代終わり頃からタレント活動をセーブ。人権活動家として活躍するようになる。アムネスティ・インターナショナルの活動に参加し、80年代半ばから90年代まで日本支部長を務めた。