「沢村忠に真空を飛ばせた男」野口修とは何者だったのか
キックの鬼・沢村忠でキックボクシングブームをつくり、五木ひろしをスターに育て上げ、エルビス・プレスリーの日本公演を企画した男の知られざる壮絶な一生――。
(文=細田昌志)
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2021年3月26日。「キックの鬼」と称された元キックボクサーの沢村忠が千葉県内の病院で亡くなった。享年78。
代名詞ともなった必殺技「真空飛び膝蹴り」で子供から大人まで夢中にさせ、日本中を席巻した昭和のヒーローである。本人登場のコミック「キックの鬼」(原作・梶原一騎/漫画・中城けんたろう)は実際の活躍と同時進行で連載され、アニメにもなった。「YKKアワー・キックボクシング」(TBS系)は毎週20%超えの高視聴率をマーク。玩具や菓子のキャラクターにもなった。正真正銘、社会現象だったと言っていい。その沢村忠が日本格闘技史上最大のスーパースターだったことは、まごうことなき事実である。
しかし、その裏側に仕掛け人がいたことも隠しようのない事実だ。それが、プロモーターの野口修(2016年死去・享年82)である。1934年東京生まれ。明大卒業後、実家の野口拳闘クラブのマネジャーとなり、プロモーターの道を歩む。28歳という若い身空で世界タイトルマッチをプロモートしてもいる。何事もなければ、組織の長として日本ボクシング界を束ねる存在になっていたはずだ。しかし有為転変あり、ボクシング業界から離れた彼は日本発祥のスポーツ「キックボクシング」をつくり出すに至った。そこでスカウトしたのが日大芸術学部に籍を置く白羽秀樹(沢村忠)だったのだ。
無名だった五木ひろしを一躍スターに
そんな野口修だが、実は格闘技の文脈だけで語られるべき存在ではまったくない。くだんの沢村忠の大成功を奇貨として芸能界にも進出している。弾き語りで生計を立てていた無名のクラブ歌手をスカウトし一躍スターに育て上げた。この無名の歌手こそ五木ひろしである。
「よこはま・たそがれ」で再デビューした五木ひろしは次々とヒット曲を連発、人気歌手の仲間入りを果たす。この構図はプロスポーツ界における沢村忠の快進撃と相似している。もちろん、五木ひろしの生来の素質と不断の努力は正当に評価すべきだろうが、プロデュースした野口修の実力も無関係ではなかったはずだ。
余勢を駆って、当時の芸能界の最大権力「ナベプロ」を向こうに回し「日本レコード大賞」を獲得する。再デビューからたったの2年で、五木ひろしを歌謡界の頂点に立たせたのだ。「野口台風」に芸能界は震撼した。業界のパワーバランスが一気に崩れたからだ。
さらに特筆すべきことがある。「まだ見ぬ大物」として来日が熱望されながら、果たされぬまま1977年にこの世を去った“キング・オブ・ロックンロール”エルビス・プレスリーの来日公演の交渉のテーブルに着いた唯一の日本人が野口修である。当時の報道や関係者の証言から、8割方このプロジェクトが進んでいたことは判然とする。すなわち、プレスリーが急死していなければ、来日公演は彼の手によって実現していた可能性は極めて高い。
銀座「姫」マダム・山口洋子という“伴走者”
野口修が芸能界にも進出し成功を収めたのは、強力な援軍たる伴走者の存在も大きかった。銀座の高級クラブ「姫」のマダムにして昭和の人気作詞家、直木賞作家の山口洋子である。彼女との邂逅が野口修に「昭和芸能界」という異界に進ませ、凡百の興行師が一生かかっても到達しえないエンターテインメントの極致にまで踏破させた。それは間違いない。皮肉だったのは、崩壊と転落もそこに潜んでいたことだ。
キックボクシングを創設し、沢村忠で大ブームを巻き起こし、五木ひろしを世に送り出し、プレスリー来日公演を一度は手中に収めた。――こんなプロモーターは後にも先にも野口修だけである。そのことに誰も異論はないだろう。
にもかかわらず、現代の日本において、野口修の業績はほとんど伝わっておらず、知名度すら高いとは言えなかった。芸能マスコミはおろか、格闘技マスコミすら彼に触れようとしないのだ。筆者はそれが不思議だった。「野口修とは何者なのか?」という関心は日に日に高まり「野口修の生涯を追ってみたい」そう考えるようになったのも無理からぬことだった。ここから、拙著の構想がスタートしたのである。
筆者が初めて野口修と出会い、聞き取り取材を始めたのは2010年3月のことである。
当初、取材は思うように進まなかった。彼自身、都合の悪いことにはほとんど口をつぐんだからだ。「キックボクシングをつくった」「沢村忠で大ブームを起こした」「五木ひろしを世に出した」――これらのことだけ彼は繰り返し語った。それ以外のことはほとんど語らなかった。これでは書籍にならない。そればかりか、人生を追うことも、何者であるかさえ把捉することはできない。
しかし、今にして思えばこれが幸いしたのかもしれない。「自分で納得いくまで取材する」という覚悟を決めたのは、取材序盤の遅滞を契機としている。つまり、“事実を追い求める”ノンフィクションに筆者を引っ張り込んだのは、“事実を語りたがらなかった”野口修自身だったことになる。そして、拙著が格闘技に収まらず、政治、思想、芸能、興行、裏社会……と、多岐にわたる「歴史書」にまで昇華した一番の理由も、ここにあったのである。
改めて問う。野口修とは何者だったのか。プロモーターなのか、右翼なのか、ほら吹きなのか、怪人なのか……。その答えはページを開くまで誰にも分からない。
▽細田昌志(ほそだ・まさし) 1971年、岡山県生まれ。プロレス格闘技専門チャンネル「サムライTV」(スカパー!)キャスター、放送作家を経てノンフィクション作家に。著書に「坂本龍馬はいなかった」(彩図社)、「ミュージシャンはなぜ糟糠の妻を捨てるのか」(イースト新書)、「沢村忠に真空を飛ばせた男─昭和のプロモーター・野口修 評伝─」(新潮社)がある。メールマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」に連載中。