北京五輪での反町ジャパンは本田圭佑に命運を託すべきだった
ここにあげた選手の大多数はその後、長らく日本代表の主力としてチームを支えた選手たちであり、吉田にいたっては東京五輪のOA枠選手に選ばれ、2012年のロンドン五輪に続いて通算3度目の出場となる。
レベルアップのために渡ったスコットランドで不振を極め、2007-2008年シーズンは1試合も出られなかった水野は、五輪代表本大会のメンバーから外されてしまった。
本田は最終メンバーに選ばれたが、代表では希望するポジションに付けなかった。
北京五輪でも、2005年にオランダで開催されたワールドユースでも、反町と大熊の2人の指揮官は、本田圭を左サイドハーフとして起用した。
本田自身はセントラルMFとしてゲームメーカーのポジションを希望していたが、そのポジションには梶山陽平がいた。
FC東京の下部組織出身の梶山は、一種の天才的プレーヤーである。
一瞬の閃きで状況を一変させ、難易度の高いゴールを何度も決めた。