アテネ五輪予選突破には幾多の困難が待ち構えていた
サッカー日本五輪代表物語 #10
2004年アテネ五輪のアジア最終予選が、山本昌邦監督の望み通りにUAEと日本の「ダブル・セントラル方式」となり、五輪開催年の3月に行われることになった。
その前年の12月、山本ジャパンに頼もしい選手が加わった。2カ月前に日本国籍を取得したDF田中マルクス闘莉王が、チームに加わったのである。
ハードワークもできるし、正確なロングフィードも得意。空中戦の強さは攻守に大きな武器となる。何よりも激しい闘争心でチームを鼓舞するメンタリティーは、チームに欠けていた1ピースと言えた。
迎えた3月1日、UAEの首都アブダビでアジア最終予選がスタートした。
相手はフィジカルの強さに定評のあるバーレーンだ。長身選手を揃え、ロングパスを多用して攻めてくる。単調な攻撃ではあるが、単純なミスが失点に繋がりかねないので気を抜くことはできない。
それでも闘莉王らを中心にタイトな守りでゴールを許さず、スコアレスドローで勝ち点を分け合った。
第2戦のレバノンは、確実に勝ち点3を獲得したい相手であり、FW田中達也、MF鈴木啓太、FW高松大樹、FW石川直宏のゴールで4-0と快勝した。
■UAE戦を控え多くの選手が細菌性腸炎に
第3戦のUAE戦の前日にアクシデントがぼっ発した。
UAEはホームのアドバンテージを生かして2連勝している。
強敵との対戦を控え、日本の選手とスタッフの大半が、原因不明の細菌性腸炎(帰国後に病名が判明)による腹痛、下痢、発熱に苦しめられたのである。
日本はUAEが用意したホテルではなく、独自に予約したホテルに入っていたが、それでも集団で罹患してしまった。
恐らく<食事の際に想定外のモノを口にした>可能性が大きいが、山本監督はコトを公にして騒ぐと国際問題に発展することを危惧し、出場可能な選手で戦うことにした。2020年、主将を務めていた鈴木啓太氏と話す機会があったが、誰もが下痢で苦しめられている中、FW前田遼一だけは「腹痛とは無縁だった」と教えてくれた。
UAE戦は序盤こそ猛攻にさらされたが、GK林卓人のファインプレーもあり、劣勢ながらも無失点で試合は進んだ。
終盤になるとUAE選手は攻め疲れたのか、足が止まってしまい、FW高松とFW田中のゴールで難敵を下した。
負けなしの首位で日本に戻ってきたが、腸炎に苦しめられた選手たちの体調は、そう簡単には回復しなかった。
そこで大きな戦力になったのが、ケガでUAEラウンドに行かなかったMF阿部勇樹と暑熱対策ができていなかったので日本に残っていたFW大久保嘉人の復帰だった。
日本ラウンドの初戦バーレーン戦は0-1で落としてしまったが、続くレバノン戦は阿部の直接FKと大久保のゴールで2-1の勝利を収める。この時点で日本とバーレーンは勝ち点12で並んだが、得失点差は日本+6、バーレーン+2と日本がリードしていた。
日本の最終戦の相手はUAE、バーレーンはレバノンだったのでバーレーンが大勝すると出場権の行方は微妙となる。
国立競技場で日本ーUAE戦が、西が丘サッカー場でバーレーンーレバノン戦が行われたが、日本サッカー協会(JFA)の平田GS(ゼネラル・セクレタリ=専務理事)の呼び掛けでレバノンを応援する日本人サポーターが、西が丘サッカー場に駆け付けた。
UAE戦は阿部のFKからMF那須大亮が先制点を決め、その後は大久保の2ゴールで3-0の完勝に終わった。
一方の西が丘サッカー場は、レバノンが粘りを見せて1-1のドロー決着。「谷間の世代」と言われた選手たちは、幾多の困難を乗り越えて五輪の出場権を獲得し、連続出場を重ねたのだった。
■OA高原はエコノミー症候群再発で五輪断念
山本監督は、本大会に向けてオーバーエージ(OA)枠を使うことに躊躇いはなかった。しかも、明確なポリシーの元に人選を行った。
まずはGKの曽ヶ端準である。1995年のU-17世界選手権、1999年のワールドユース、2000年のシドニー五輪と曽ヶ端はいずれもバックアップメンバーとして出場できなかった。
2002年日韓W杯も楢崎正剛の控えとなり、国際舞台での実戦経験がほとんどなかった。
そこで山本監督は「A代表の正GKの座を争っている」楢崎と川口能活に続くGKとして、曽ヶ端に国際経験を積ませようとシドニー五輪のOA枠として招集した。
MFには、一次予選のフィリピン戦でのケガでシドニー五輪の出場を逃した小野伸二を、FWにはエコノミー症候群で年日韓W杯の出場を断念しなければならなかった高原直泰を選んだ。
この2人の<リベンジの気持ち>を期待しての選出だったが、不運にも高原はエコノミー症候群を再発させてしまう。
所属先の独ブンデスリーガ・ハンブルガーSVのチームドクターは「完治した」と保証した。
しかし、JFAの医学委員会の委員長が出場に否定的な見解を述べ、さらに当時の川淵三郎JFA会長も招集を断念するようなコメントをマスコミに出し、これで高原の「アテネ断念」が既成事実化してしまった。
■アテネでは「1点の重み」に泣く
アテネ五輪初戦のパラグアイ戦は激しい点の取り合いとなり、最終的に3-4で敗れた。
2戦目の相手イタリアはジラルディーノ、デル・ピエロ、デロッシなどOA枠を含めて錚錚たるメンバーで臨んできた。日本はミスなどから前半だけで3失点。デロッシには、豪快なオーバーヘッドキックでゴールを決められた。阿部の直接FWと高松のゴールで1点差に迫る粘りを見せたのだが……。そして最後のガーナ戦では、大久保のゴールでやっと初勝利をあげることができた。
優勝は得点王になったFWテベス擁するアルゼンチン。初の金メダルである。
そして銀メダルはパラグアイが、銅メダルは準決勝でアルゼンチンに敗れたイタリアが獲得した。 グループリーグで1点差で敗れたパラグアイとイタリアとメダルをゲット……。山本ジャパンにとって<1点の重み>が、天国と地獄の分かれ目となった。
アテネ五輪と山本ジャパンは「最終予選の奮闘ぶりによって記憶されるべき」ではないか。
山本監督と平田GSの駆け引きによってダブル・セントラル方式が採用され、UAEラウンドでは原因不明の下痢など幾多の困難に直面しながら、選手とスタッフは最大限の努力を積み重ねながら、五輪発祥の地・アテネにたどり着いた。
改めて敬意を表したい。(この項おわり)