山本アテネ五輪監督が率いたのは「谷間の世代」だった
サッカー日本五輪代表物語 #9
「アテネ(五輪)経由ドイツ(W杯)行き」
2004年アテネ五輪のアジア予選を戦うに当たり、山本昌邦監督が掲げたキーワードだった。
23歳以下(延期された東京五輪は24歳以下)という年齢制限のある五輪は通過点に過ぎず、選手としての「最終目標はW杯である」という指揮官のメッセージでもある。
その山本監督が五輪代表を率いるようになったのは、2002年の日韓W杯が終わってからだった。
日韓W杯ではトルシエ代表監督をコーチとして支え、日本をW杯初のベスト16に導いた。
1996年アトランタ五輪でも、コーチとして28年ぶりの五輪出場に貢献。その後はU-20(20歳以下)代表監督として1997年のワールドユース(現U-20W杯)で当時最高位となるベスト8入りを果たした。
さらに準優勝を果たした1999年ワールドユースでは、途中まで山本監督がさい配をふるった(チームが勝ち上がった段階でトルシエ監督が指揮権を握った)。