表現は公益を害するのか? キナ臭い空気が保守政党や世間に漂っている
我が映画「無頼」は、コロナのせいで1年以上も公開が延びていたのだが、先週末からやっと東北の福島、山形、八戸でも公開となり、各所へ舞台挨拶に行ってきた。でも、おかげさまで大盛況とは言えず、随分と時間も経ったし、改めての宣伝も出来なくて初日のお客さんはあまり呼べずだった。1週間の公開だが、お客さんには本当に感謝している。おまけに、映画界で一番やくざな高値の2200円もするパンフレットまで買ってもらったことも。
まあ、いい気晴らしになってくれたのならと思っている。映画は大衆のうっぷん晴らしだと思って撮ってきた。悩みの人生相談室みたいなウソ話や、ありもしないことをこねくり回す物語は作る気はないが、また次作を待っていて下さいと挨拶してきた。
映画はただの娯楽モノもあるし、哲学モノもあるし、両方撮ってきた。でも、最近は何だか表現の自由闊達さが狭められてきたようだ。主人公がヤクザだと最後に更生するか殺されて死ぬかでないとコンプライアンスに抵触するからと製作しなくなった。反社会・反日的なものは配給会社も煙たがるばかりだ。格差と疎外と不幸に心を病んで人を殺して姿をくらました「ジョーカー」はアメコミ人気キャラだし、客を呼べるから特別だったらしい。