「愛の告白をする時に原稿を読む人はいません」と石破さん たまらないではないか
政治と言葉の理想的な関係をさぐるのはむずかしい。ふたりの代議士に会ってしみじみ思った。
国葬前日の9月26日の夕方、新宿西口で行われた国葬反対デモ集会にぼくは足を運んだ。スピーカーのひとりに立憲の小川淳也議員がいた。小川さんといえば、大島新監督の政治ドキュメンタリー「なぜ君は総理大臣になれないのか」で知られるが、デモに参加するイメージはあまりない。実際スピーチは受けが悪かった。喉の不調もあってリズムが悪い。アジるでもなく、ユーモアで和ませるわけでもない。聴衆より自分に言い聞かせているようにも感じられた。民主主義を取り戻そうという主張には一定の説得力があったが、この種の集会に不慣れな印象は払拭できぬまま、スピーチは終了した。
そのあと本人と話してわかったのだが、その日の午後、彼は大井町で品川区長選の応援演説をしていた。その際に喉をかなり消耗し、本調子にはほど遠い状態だった。彼はその悔しさをぼくに語り続ける。話題が世襲議員の弊害におよぶと目が据わり、声は一段と大きくなった。熱がびんびんに伝わってくる。いまスピーチやれば聴衆の心をひとつにできたのに。内心そう思いながらも、ぼくは彼の熱さを好ましく感じた。そのとき頭に浮かんだ四字熟語は、たいへん失礼ながら「楽屋真打」。未来の名人はそこにいた! とポジティブに捉えてみたい。