米国進出をバッシングされたピンク・レディー
<1980年3月>
デビュー曲「ペッパー警部」が60万枚(オリコン調べ)の大ヒット。その後、ミリオンセラーを連発し、社会現象を巻き起こしたミーとケイの2人組ピンク・レディー。80年3月には日本人初となる全米3大ネットへのレギュラー出演という快挙も成し遂げた。
しかし、その一方で日本のマスコミはピンクの米国進出にバッシング記事を書き立て、解散間近とまで報道する騒ぎとなった。
77年の「渚のシンドバッド」から78年の「モンスター」まで5曲連続でミリオンセラーのヒットを飛ばしたピンクのターニングポイントは、78年紅白辞退。日テレの特番「ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!」に出演するのが理由だが、人気絶頂期に紅白を“蹴った”形となったピンクに対し、マスコミは冷ややかな記事を掲載するようになる。特番も視聴率を稼ぐことができず、78年の1回のみで終了。さらに前年の辞退への意趣返しか、79年の紅白歌合戦は落選になった。
そんなピンクが次に目指したのがアメリカへの進出。かねてピンクは全米3大ネットのひとつNBC出演を目標に、ラスベガス公演、米国レコーディングなどを行っていた。79年9月5日発売のアメリカでのデビューシングル「キス・イン・ザ・ダーク」は全米チャート37位、90万枚を売り上げるヒットとなった。