「お話しできることはありません」明菜に感じた悲劇の影
平成の幕開け1989年7月、血まみれの中森明菜(23=当時)が慈恵医大に緊急搬送された。マッチこと近藤真彦(25=同)のマンション浴室で自殺を図り、左肘内側に深さ2センチ、長さ8センチの神経に達するほどの重傷を負ったのだ。手術は6時間に及び、レコ大2年連続大賞受賞の歌姫は死線をさまよう。衝撃のニュースが日本中を揺るがし「どうして」の声が上がる中、「やっぱり」との感想もあったのである。そんな悲劇を予想されるような影、危うさ。渋谷公園通りを上がってきた明菜を直撃したときも感じられた。
名刺を渡し、質問を投げかける。
「お話しできることはありません」と、コメントを拒絶する。その声は小さく、こちらと目をほとんど合わせない。ステージで「少女A」などを歌う姿とのギャップ。そんなに気の強いタイプではなかったのだ。今で言うところのオーラも感じられなかった。
明菜は東京都清瀬市出身。6人きょうだいの5番目、三女だ。ツッパリの兄姉と違い、おとなしいお母さん思いの少女時代を過ごし、美空ひばりさんに憧れ歌手を目指したお母さんの夢を引き継いだ。自分の夢は結婚し、お嫁さんになること。だから歌手で売れても、そこがゴールではなかった。