萩本の両親から「せがれを使ってやってもらえないか」と…
萩本欽一<前編>
フランス座の軟式野球チームには、のちにコメディアンとして大成する“欽ちゃん”こと萩本欽一も所属していた。フランス座を経営する東洋興業のもう一つの劇場「東洋劇場」でゼロから笑いを学んだ、生粋の“浅草芸人”だ。
もともとは萩本の両親が駒込でやっていた写真館がつぶれて、家族で松倉さんの父が経営するアパートに越してきたのが芸人になる転機となった。当時は、劇場のほかに「第一松倉荘」「第二松倉荘」というアパートを所有していた。フランス座と東洋劇場の芸人、裏方、踊り子が寮として使っていたが、関係ない人たちも住んでいた。欽ちゃん一家はこの第一松倉荘に引っ越してきた。
「入ってしばらくしてから欽坊の父親が、自分たちの大家はフランス座なんだって知ったんだ。私の父・宇七のところに欽坊を連れて、菓子折りを持ってやってきた。『実はうちのせがれがコメディアンやりたいって言っていて、使ってやってもらえないでしょうか』とね。それで、通っていた駒込高校を卒業後に見習いから、ということになったんだ」
萩本は元来、シャイで真面目。周囲は、コメディアンとしての素質に疑問を感じていたそうだ。実際、努力家であるものの、舞台ではパッとしない日々が続いた。当時、劇場のトップだった師匠の池信一に入門して、3カ月目には「コメディアンに向かない」と演出家にダメ出しされたという。