舞台でセリフに詰まると二郎は歌い、欽坊は走った浅草時代
萩本欽一<後編>
あまり芸が達者じゃなかった萩本欽一とは対照的に、相方の坂上二郎は多才だった。2人は東洋劇場で笑いを学んだのち、1966年にお笑いコンビ「コント55号」を組んだ。
「二郎は子供の頃から歌がうまかったし、地元の鹿児島にいたころに『NHKのど自慢コンクール』で優勝しているんですよ。上京して歌手を目指したが挫折して、お笑いの世界に入った。そんな、まだ見習いの立場の2人がうちの舞台でコンビを組むことがあったんだけど、二郎はセリフに詰まると突然、大きな声で歌いだすんだよ。するとお客さんも『うまいなー』って感心しちゃって、ミスが許される雰囲気があった。それで舞台が成立していたんだよ。一方、手持ちぶさたの欽坊は、舞台の端から端にタタッて走り抜ける。そんなコンビネーションで切り抜けていたんだよ」
コンビ結成当初、「浅草に面白いコメディアンがいる」と聞き付けたテレビ業界からスカウトが来た。このとき萩本はピンで出演したが、緊張に押し潰されてNGを連発、限界を感じて浅草に出戻っていたという。
後年、「視聴率100%男」の異名を持つようになるとは、誰にも想像できなかっただろう。