矢沢透さんが語る「アリス」結成前夜…亡き谷村新司と語り明かした2人の1カ月
アリス 矢沢透さん(74歳)
アリスのリーダーだった谷村新司さんが亡くなったのが10月8日(享年74)。それから2カ月。谷村さん亡き後の喪失感に切実な思いでいるのはメンバーの矢沢透さん、堀内孝雄さんだ。アリス結成の1971年から52年の年月。どん底も絶頂もともにしてきた戦友の死の悲しみを乗り越えるのはまだ時間がかかりそうだが、矢沢さんが谷村さんとの忘れられない出会いの日々を語った。
僕がアリスをやることになったのは谷村と出会って、外国の地で1カ月ほど過ごしたのがそもそもの始まりです。1971年のことです。
その頃の僕は静岡から出てきて、沖縄の米軍キャンプを回ってドラムを叩いたりして、10代でプロのジャズドラマーとしてデビューしていました。
当時、NHKに「ステージ101」という番組があって、ヤング101というユニットが組まれました。中心は惣領泰則が率いていたシング・アウトというグループのメンバーです。
惣領は世界で活躍することを目指して、ブラウン・ライスというバンドを結成します。このバンドは後にザ・ビートルズのポール・マッカートニーから曲をもらったことでも知られているバンドです。ぼくはそこでドラムを叩いてました。そんな折、いくつかのグループがアメリカ横断ツアーに参加する話が持ち上がって、ブラウン・ライスもオーディションを受けOKになりました。
それでアメリカに行くことになって羽田空港で初めてロック・キャンディーズをやっていた谷村を見たんです。そこには加藤和彦、西岡たかしといったフォークの人たちもいました。僕はジャズだから、彼らと面識はありませんでしたが、バンクーバーやトロントを回り、代わりばんこにステージに上がりました。
次にメキシコに行った時です。主催者が逃げちゃいましてね。それで泊まるところもないというので、アリスの所属事務所の社長になる細川健さんらが地元の日本人会とかに掛け合って、宿を確保してくれた。ミケンランヘロというホテルでした。でも、コンサートがなくなったから、何もすることがない。そんな暇を持て余していた時に谷村と話をしたら、すごく気が合って。何を話したか忘れたけど、毎日、朝起きてから夜寝るまでずっと話していた。なんでもない話や音楽のことだったのかな。
ただ、覚えていることが一つあります。当時僕は女性と同棲していました。ところが、その頃はトワ・エ・モアのバックで叩いていたけど、スクールメイツの女の子を好きになっちゃって。別れようかどうしようか迷っていて、やっぱり同棲していた彼女がいいと思い直し、メキシコから日本にいる彼女に謝りの電話を入れたんです。
その時、コレクトコールにすればいいのに、普通に1時間以上しゃべったら電話代が11万円くらいになっちゃった。1ドルが360円の時代ですからね。それでお金がなくなって滞在中はずっと谷村に食べさせてもらいました。1日3食ハンバーガーだったかな(笑)。