谷村新司の色褪せないポリシー…「アリス」誕生は無謀でむちゃな米ツアーが原体験
シンガー・ソングライター谷村新司(73)がこのほど、バンド「アリス」誕生秘話をラジオで語った。
時は1970年の大阪万博。アマバンドのボーカルとして、カナダ館で演奏していた22歳の谷村は「おまえらの歌をアメリカ人に聴かせたろやないか」と、このとき知り合った若者から誘われ、これに従った。
「僕らもピュアだったから、そうやなと言ってたら、本当にそれが実現して。アメリカ大陸をバンクーバーからニューヨークまで横断して、メキシコまでたどり着いた時に持っていたお金が尽きたんです」
この若者がメキシコの国営放送に掛け合い、メキシコフェスタに出演。言葉も通じず、歌もうけなかったそうだが、「残り時間3分くらい、アミーゴ一発で通しましたね。一点突破。メキシコ人がおまえらのアミーゴ最高だったよと言ってくれて。よかったのかな、それでと。怖いものは何もなくなりました。友達ひとりいたらその国を好きになると体感できた。この原体験が凄く大きかった」と振り返った。
金欠だったけれど、全米横断中にレッド・ツェッペリン、ジャニス・ジョプリンのステージを生で見る機会に恵まれたという。ちなみに「アリス」とはロスのレストランのメニューにペン字で書いてあった「Alice」との表記から。かっこいい、バンド名にしようと決めたのだそうだ。構成作家のチャッピー加藤氏が解説する。
「この『万博で知り合った若者』というのは、アリスの所属事務所になる『ヤングジャパン』社長の細川健氏です。細川氏の企画した米国ツアーには谷村さん以外のミュージシャンも同行し、谷村さんはアリスのドラマーとなる矢沢透さんと出会う。万博会場での出会い、無謀ともいえる米国ツアーがなければ、アリスは誕生していなかった。そして、面白そうなことはまずやってみようが、谷村さんのポリシーになったのです」
深夜ラジオで始末書
その筆頭が文化放送「セイ!ヤング」「青春キャンパス」、また「ヤンタン」の愛称で親しまれたMBSラジオでのDJ時代。
「深夜ラジオだけに、聴いている人はそんなにいないだろうと冗談で大阪・中之島公園に集まってと呼び掛けたら、リスナーであふれかえり、警察が出動する事態に。アリスが売れる前の話ですからね。車で聴いている人にクラクション鳴らすよう呼びかけ、大阪の街にクラクションが響き渡ったとか。警察からは大目玉で、しょっちゅうディレクターが始末書を書いていたそうです」(加藤氏)
規制やらコンプラ重視の今では考えられないようなエピソードの数々。
「文化放送の『青春キャンパス』も、ばんばひろふみさんとシモネタ、バカネタのオンパレード。ビニ本集めが趣味と公言したりしていました。大笑いしながら、思ったものです。ああ、こういうステキなオトナになりたいなあって。谷村さんは大御所になった今も同じポリシーでいるからステキなんです」
若者の特権ともいえる無謀、むちゃが人生を切り開く。アリスはそうして生まれたのであった。