ぼくたちの日々には、もっと曖昧でユルい「愉しさ」が足りないのではないか
師走最初の土曜日(12月2日)の午後、東京・御茶ノ水のブックカフェ〈エスパス・ビブリオ〉で催された「泉麻人×一志順夫トークショー『昭和50年代の東京について語ろう』」は、サブカルチャーを偏愛する数十名の大人たちの熱気につつまれた。
これは泉さんの新著『昭和50年代東京日記』(平凡社)の出版を記念したもの。マイクを握る両氏はいずれもフリーペーパー「月刊てりとりぃ」の同人とはいえ、対談するのは初めてという。
ぼくはこの秋から寄稿するようになった同紙の新参者だが、読者として長らく著作に親しんできた泉さん(昭和31年新宿区生まれ)と、30年以上も音楽の仕事や私的な時間を共にしてきた一志さん(昭和37年三鷹市生まれ)の顔合わせには興奮を禁じ得ない。両者の初トークを聞き逃すわけにはいかぬと足を運んだ。
昭和43年に福岡で生まれたぼくは、昭和50年代の東京をわずか3日しか体験していない。たしか小学5年生の夏休みだから、昭和53年か。かつて13号地と呼ばれた埋め立て地(現在の江東区青海)で開催された〈宇宙科学博覧会〉の見学に、地元九州の新聞社の「豆記者」のひとりとして参加したのだ。
無論3日間を宇宙博だけで過ごしたわけではない。本郷の和式旅館の大広間に布団を並べて豆記者仲間と深夜までおしゃべりに興じ、神宮球場のヤクルト対阪神戦に歓声を上げ、東京タワーでスリの餌食となり、財布をなくして泣きべそをかいた。
そんなことを思いだしながら『昭和50年代東京日記』の53年の章を読んでみる。当時慶応義塾大学4年生の泉さんは広告、映画、そして演劇という3つのサークルに所属して、精力的に活動していたことがわかる。
新宿の紀伊國屋ホールでつかこうへいの「熱海殺人事件」を観劇して刺激を受けたり、広告クリエイターを目指して就職活動を始めたり。年が明けると卒業旅行で丸々1か月もアメリカを旅していたと書いてあるから、何とも羨ましい境遇の若者だなあ。
ラスベガスではカジノのスロットマシーンでちょっとした勝ち金を得た泉さんは、調子に乗ってホテルの部屋にコールガールを呼ぶという挙に出るが……その先は実際に読んで確かめていただくとしよう。