クミコさんとシャンソンは“腐れ縁”…「愛の讃歌」はスカスカの軽石が密度を増して普通の石のように
先のパリ五輪ではセリーヌ・ディオンのシャンソンで幕が開き、日本に目を移せば、シャンソンを広めた越路吹雪の生誕100周年のシャンソンの当たり年。現在、日本におけるシャンソン歌手の第一人者といえば、クミコさん。シャンソン人生に欠かせないのはあの名曲──。
元々はシャンソンとは縁のない世界で生きていました。今となってはシャンソンとは腐れ縁のようなもの。一番大切な曲は「愛の讃歌」ですね。
10代はグループサウンズからフォークソングになっていった時代。外国からはビートルズとか他のいろんな洋楽も入ってきました。その後、歌謡曲が全盛になり、誰でも歌うことができるヒット曲が次から次に出てきて、とっても幸せな時代でした。
私は古い歌だと西田佐知子さんの「アカシアの雨がやむとき」を歌ったりしていましたね。グループサウンズは大のタイガースびいき。思春期はタイガースとともにあるという感じでした。ただ、まだカラオケはありませんから、フォークソング以外はあまり歌うこともなかったように思います。
学校の音楽の時間はつまらなかった記憶しかないですね。その頃の音楽教育では女の人はクラシックの高いキーくらいで歌うのが普通でした。例えば、山本潤子さんが歌った「翼をください」のような。私は声が低いので、あのキーは高過ぎて歌っても楽しくなかったですね。
紅白歌合戦はよく見ていました。美空ひばりさんや島倉千代子さんといった大歌手が堂々と歌われている中で、越路吹雪さんが歌うシャンソンも好きでした。
紅白で越路さんが歌うとガラッと雰囲気が変わるんですよ。越路さんは目がウロウロする瞬間があって、ドキドキしている感じがこちら側にも伝わってきました。ライブ感のある方という言い方ができるかもしれません。
大学はお芝居がしたいと思って、早稲田に進みました。お芝居している時に、ギターの伴奏で、及川恒平さんのフォークソングをみんなで歌うシーンがありました。それを歌った時に私の低いキーと及川さんのキーがピタッと合った。その時、地声で歌うとこんなに気持ちがいいのかと、初めて歌う楽しみを知ることができました。
それが19歳。一気に音楽に開眼です。楽しいものが見つかって、やるなら芝居じゃない、歌だと思って、すぐにお芝居をやめました。
でも、何をどうすればいいのかわからない。ちょうど「ぴあ」が創刊された頃です。たまたまシャンソンとカンツォーネの教室の広告が載っていたので、その違いもわからないまま、歌の勉強ができると思って、その教室にすっ飛んで行きました。渡辺えりさんも卒業した池袋の舞台芸術学院です。1週間に1回、シャンソンかカンツォーネの授業があり、教本を見ながら先生のピアノの演奏で何十人かで歌う授業です。受講期間は6カ月。
ただ、通うのはいいけど、どうも様子がおかしい。最初に教わったシャンソンはエロチックだけど、暗くて知らない歌でピンとこない。それは聴いたことがある越路さんのとは違っていました。それですっかりめげてしまい、シャンソンの授業には行かなくなって。
6カ月後、卒業する前に発表会がありました。シャンソンとカンツォーネを1曲ずつ歌わないといけないけど、私はシャンソンは越路さんの「サン・トワ・マミー」しか歌うことができない。それで友達が歌おうとしていたのに、私に歌わせてとお願いして、その場はなんとかしました。私にとってはその時の「サン・トワ・マミー」が初めて歌ったシャンソンでした。