大泉洋「終りに見た街」が描くのは、戦争は過去のものではないという現実的な「苦み」だ
先週末、テレビ朝日の開局65周年記念ドラマ「終りに見た街」が放送された。原作は山田太一の小説。1982年と2005年にドラマ化されている。今回の脚本はクドカンこと宮藤官九郎だ。
田宮太一(大泉洋)は売れっ子とはいえない脚本家。妻(吉田羊)、高校生の娘(當真あみ)、小学生の息子(今泉雄土哉)と暮らしていたが、突然、戦時中の昭和19年にタイムスリップしてしまう。そこは社会の空気も人々の気持ちも、現代とは違い過ぎる日本だ。
太一たちは周囲に悟られないよう適度に溶け込みながら、終戦を待とうとする。戦時下の「現在」で生きること。東京大空襲や敗戦という「未来」を知っていること。太一の葛藤は深まる。
だが、それ以上の苦悩は、子どもたちがこの時代にのみ込まれていったことだ。娘は「お国のために死んだ人を笑うの?」と怒り、息子は「僕だって戦いたい!」と叫ぶ。
「正気を失っている」と太一は驚くが、普通の人たちが「正気を失う」のが戦争なのだという事実に見る側も慄然とする。
そして、衝撃のラスト。現代に戻った太一を襲う悲劇は原作の通りだ。起きていることを理解する時間がないため、どこか置き去りにされた感じは否めない。しかし、山田太一とクドカンが伝えようとしたのは、戦争は過去のものではないという現実的な「苦み」だったことは確かだ。