猿渡武嗣さんは妻に笑われた占いの「39歳で死ぬ」が現実に
振り返れば、猿渡の新日鉄での17年間のサラリーマン生活において、東京本社勤務時代までが心休まる充実した時代だった。
猿渡の最後の職場となったのは、北海道の新日鉄室蘭。
その厚生課長として赴任したのは、80年だった。もちろん、厚生課長に昇進しての最初の赴任地だったためだろう。大いにハッスルし、部下にお手本を示すがごとくモーレツサラリーマンに徹した。残業もいとわず、接待ゴルフに接待マージャン、得意先への夜の接待。帰宅はいつも午前さまだったという。
東京時代と比べると、その仕事量は天と地ほどの違いで、家族と夕食をともにできるのは週に1、2回。休日を一緒に過ごせるのは月に1回。
■職場では「オリンピックのサル」と揶揄
多忙な課長職とはいえ、これほどまでに仕事に追われたのはなぜなのか。元日本陸連関係者が、その理由をこう語る。
「現役時代の猿渡は、多くのオリンピアンを輩出していた“旧八幡製鉄系”の新日鉄八幡の社員。対して“旧富士製鉄系”の新日鉄室蘭には、オリンピック種目の陸上競技部はなく、同じ会社でも温度差があった」
そのためだろうか。新日鉄室蘭に赴任した猿渡武嗣は、陰では「オリンピックのサル」と揶揄されていた。それは明らかに動物のモンキーを指していた。
当然、払拭する行動を開始する――。(つづく)
▼さるわたり・たけつぐ 1942年福岡県生まれ。65年に中央大学から八幡製鉄所(現新日本製鉄)に入社。アジア大会で2度優勝した中距離陸上界の第一人者。64年東京、68年メキシコ五輪陸上3000メートル障害代表。