体操団体金と種目別ゆか銅を獲得した「ソニーマン」の苦悩
1968年メキシコ五輪・男子体操代表 加藤武司さん(上)
1964年の東京オリンピックで日本は、史上最多の16個の金メダルを獲得。そのうち男子体操は5個を手中にし、“体操ニッポン”を内外にアピールした。
しかし、悔し涙で仲間の演技を見守る男がいた。早稲田大4年の加藤武司で、無念にも補欠選手だったからだ。ただ、それがその後の励みとなる。
翌年春にソニーに入社し、3年後のメキシコオリンピックに出場。個人総合5位入賞を果たし、団体総合優勝に貢献する一方、種目別のゆか運動でも銅メダルを獲得した。当然、4年後のミュンヘンオリンピックでの活躍も期待された。
■「嘱託社員」と「正社員」の差
ところが、社会人オリンピアンの加藤には大いなる悩みがあった。「世界のソニー」に入社しても一般社員とは違った。早大卒業とはいえ、2部(夜間課程)のために現役選手期間中は「嘱託社員」扱い。さらに、その期間は退職金に加算されないという条件も付いていたのだ。
これには悲観し、同じ体操競技オリンピアンの妻・宏子(東京五輪団体総合銅)を前に言った。
「ぼくはソニーの看板を背負って頑張っても、本当のソニーマンではないんだな。一流企業ほど厳しいよ……」
加藤は当初、大学に残って体操部のコーチをしながらメキシコオリンピックを目指し、ゆくゆくは大学の教員になれればと思っていた。しかし、体育関係の教員になるには体育専門学科を卒業していなければならず、その道は閉ざされていた。彼は商学部出身だった。