日本人初の8mジャンパーは引退後、企業戦士から帰らぬ人に
1964年東京五輪・1968年メキシコ五輪・走り幅跳び代表 山田宏臣さん(下)
「大変だよ、社会人は。周りはみんなエリートで、仕事のムシだ。俺なんか体育学部出身のスポーツばかだし、一生平社員だ」
30歳で選手生活を引退。東急電鉄の社員に専念することになった山田宏臣は、学生時代の友人にその焦りを訴えた。だが、オリンピアンとしての自負と意地。加えて最大目標の8メートルを跳んで日本人初の8メートルジャンパーという矜持が、そのまま流される自分を許さなかった。
引退直後は東急電鉄沿線の駅改札口での切符切りを余儀なくされたが、東急ホテルズ・インターナショナルに出向。販売促進担当員として営業マンになると、その働きぶりには同僚でさえも驚いた。得意先の接待には進んで出席し、深夜まで宴会屋としての真骨頂を発揮した。
「僭越ながら裕ちゃんの『俺は待ってるぜ』を歌わせていただきます」
マイクを手にすれば、十八番の石原裕次郎の歌を披露した。二日酔いのときは早朝トレーニングでアルコールを抜き、そのまま得意先に直行。笑顔で深く頭を下げ、大声で「走り幅跳びの山田宏臣です!」と名乗る。自ら休日も返上して働きまくる、まさにモーレツサラリーマンだった。それが功を奏したのだろう。引退後、5年目には異例の抜擢で販売促進課長に昇進した。