天才アラーキー傘寿を語る
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<31>生まれたときからこの情景を見てた 体に染みついてる
生まれてから、ずっと住んでいた(台東区)三ノ輪を離れるときに、実家の近所を撮った写真だね。タイトルの「私景1940―1977」っていうのは、撮影したのは1977年の数日だけど、生まれたときからこの情…
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<30>桑原甲子雄さんの写真集はオレがプリントしたんだよ
24歳のとき、無名のオレに最初に声をかけてくれた恩師の桑原甲子雄さん(写真家・写真評論家)。電通をやめた後、桑原さんが編集長をしていた雑誌で1年間、表紙の撮影をしたこともあるんだよ(1973年、桑原…
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<29>恩師・桑原甲子雄さんはずっと応援してくれたんだ
オレにとって恩師というのは、桑原甲子雄さん(写真家・写真評論家)なんだよね。まだ大学を出て電通に入った次の年ぐらい(1964年)で、オレがカメラ雑誌に写真を応募していた頃に、桑原さんが編集長をやって…
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<28>ペッチャンコーラは都市の遺骨 写真機の骨壷に収める
これが有名な「ペッチャンコーラ」だよ(笑)。ぺっちゃんこになったコーラの缶だから、「ペッチャンコーラ」ね。これはさ、ぺっちゃんこにつぶれたコーラの缶を拾って、うちに持ち帰って、きれいに洗って、白バッ…
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<27>子どもの頃、遊び場は「投げ込み寺」遊女の墓場だった
これは、三ノ輪(台東区)の実家の近くの浄閑寺で撮った写真なんだ。彼岸花だけどね。浄閑寺は吉原の遊女の「投げ込み寺」。そこが子どものときの遊び場だったんだよ。寺には吉原総霊塔っていうのがあって、身寄り…
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<26>ビョークとの思い出 狂気を内に秘めてて最高なんだよ
このあいだ、バイデンがアメリカ大統領になったときの就任式で、レディー・ガガが国歌を歌っていたね。レディー・ガガもさ、撮ったんだよ。ずっと「撮って撮って」ってラブコールがあってね、初めて日本に来たとき…
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<25>安らかに、の言葉通り 愛しのチロは眠るように逝った
チロは、3月3日のひな祭りの前日に亡くなったんだ(2010年3月2日)。医者には腎不全だって言われたんだよ。2月の終わり頃から急に調子が悪くなってね、モノを食べられなくなって、ガリガリに痩せちゃった…
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<24>死んでいなくなるとその存在は「エンドレス」になる
チロがいなくなって、日曜日は、とくに寂しかったね。休みの日は、ずっと一緒にいたからさ。朝、オレがシャワーを浴びようとして風呂場に入ると、一緒に入ってきてさ、ピチャピチャって、風呂桶の水を飲むんだよ。…
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<23>陽子が亡くなりチロが亡くなり…情況に慣れずにいた
チロがいなくなって、もう10年が経つのかぁ。チロちゃんが亡くなったのは3月2日でね、翌日の桃の節句の日に見送ったんだよ(2010年3月2日にチロが息を引きとり、3日に荼毘に付された)。ペットの共同墓…
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<22>チロは陽子が亡くなった後、オレを励ましてくれた
猫は臭いから嫌いだって言ってたのに、4ヶ月の子猫だったチロがウチに来て、ネコロリコロリって、オレはすぐにまいっちゃったんだよね(笑)。チロは、バルコニーから隣の柿の木に飛び移ったり、家の屋根に登った…
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<21>チロに「吾輩は猫である」を読んであげたこともあるよ
これはチロがウチに来て初めての正月だね(1989年1月1日)。正月だから陽子は着物着て、チロちゃんにもリボンをつけてあげたんだよ。 チロはね、陽子が春日部(埼玉県)の実家からもらってきたんだ…
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<20>永六輔さんはオレのメール・アートに毎回返事をくれた
これは、オレの写真全集の最後の20巻目に入れている肖像、セルフポートレイトなんだよ(『荒木経惟写真全集』全20巻、1996―97年平凡社より刊行)。『ARAKI BY ARAKI』の表紙にもなってる…
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<19>オレの80年代は末井昭がつくったようなもんなんだ!
スエー(末井昭、編集者・作家)と出会って(1976年)、雑誌を一緒にやって、写真集もいったい何冊出しただろうなぁ。末井が編集長の雑誌で連載を始めて、すぐに何冊も出したんだよ(1978年『男と女の間に…
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<18>末井昭と出会う「すごい編集者がいるな」と気に入った
長いつきあいだね、スエーとはね(末井昭、編集者・作家)。いつも夜10時に待ち合わせて、新宿歌舞伎町を撮りに行ってた頃の写真があるよ。やっぱりね、性風俗が元気なときは時代が元気なんだよ。 最初…
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<17>平沢勝栄さんとの縁…検挙されたが選挙ポスターを撮影
タクシーに乗って、定年退職してドライバーになった運ちゃんに「センセイ、昔、お世話になりました」って言われたことがあるんだよ。スエー(末井昭、編集者・作家)とやっている頃の写真のことをさ、言われるわけ…
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<16>豪徳寺のマンションのバルコニーが俺の「写場」だった
毎朝、(世田谷区)梅ヶ丘の家の屋上で空の写真を撮ってるんだよ。ずっ~と、毎日、空を撮影してるね。梅ヶ丘に引っ越したのは、それまで住んでいた豪徳寺の“ウィンザースラム豪徳寺”を壊すことになったからなん…
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<15>「性欲と食欲を満たす」というふれこみで写真展を開催
ワークショップの「荒木経惟私塾」をやった1年間(1976~77年)、写真展はどこでもいつでもできるんだ、街は展覧会の会場だって言って、「東京を行く」では、公衆電話ボックスや山手線のプラットフォームで…
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<14>写真展ならどこでもできる 街の中でやりゃいいんだよ
電通を辞めて2年ぐらい経った頃かな、東松照明さん(写真家)が寺子屋方式の「ワークショップ写真学校」を始めたときに、森山(大道)さんや深瀬(昌久)さんと一緒にオレを先生として呼んでくれたんだよ。東松さ…
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<13>勘三郎さんとはすごく通じ合っていたような気がするね
勘三郎さんを初めて撮ったのは浅草で、「平成中村座」で『法界坊』を演るときなんだ。あれから20年が経つんだねぇ。勘三郎さんとは、気持ちがすごく通じあってね、好きだったねぇ~。そのときは勘九郎だったけど…
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<12>「相談がある」電通上司が社員食堂で告げた言葉の真意
自分から電通を辞めたって言ってるけど、クビになっただけなんだよね(笑)。ある日、上司に「相談がある」って呼ばれて、上のほうで問題になってるって言われたんだ。で、「どうする? もとの『さっちん』に戻る…