<30>桑原甲子雄さんの写真集はオレがプリントしたんだよ
24歳のとき、無名のオレに最初に声をかけてくれた恩師の桑原甲子雄さん(写真家・写真評論家)。電通をやめた後、桑原さんが編集長をしていた雑誌で1年間、表紙の撮影をしたこともあるんだよ(1973年、桑原が編集長の写真雑誌『フォトコンテスト』の表紙「当世写真家列伝シリーズ」を荒木が担当、桑原がインタビューをした)。オレは桑原さんに言ったんだ。今、流行っている、今、世に出ている写真家をみんな表紙にしたいってね。というのは、オレは知りたかったわけ、どんな写真家がいるかとか、土門拳に会いに行くとかさ。だから土門拳から篠山紀信まで撮ってるわけだよ。
■戦前に撮影した写真のネガを見て驚いたね
桑原さんの『東京昭和十一年』(1974年刊写真集)はさ、オレがプリントしたんだよ。戦前に撮影した写真のネガを見て、驚いたね。戦争で焼け残った家の倉庫から出てきたらしい。ずっと箪笥の中にしまっててさ、オレに見せてくれたんだ。
その頃、神楽坂にあった暗室で、オレがネガから写真を全部プリントしたの。見たら、なんで今までこれを発表しなかったのか、というのがあるんだ。本人もアマチュアで、戦前から写真を撮り続けていて、編集長になる前は写真雑誌に投稿をして、年間1位とかもとってた。浅草の乳母車を押しているような名作があるじゃない。ああいうのがいいって、それは選んでいる。だけど、選び損なっていたのはね、例えば、バスに乗って、バスの窓から見かけた婦人が小走りに走ってくる。着物の裾が乱れている、そういうふうなのは選んでないわけ。だから、(森山)大道さんじゃないけど、“背中もの”が多いわけよ(笑)。
桜の頃はいつも呼んでくれたんだよ、馬事公苑の家に
桑原さんは、オレの写真をイケてると思ってくれたから、こんな良い写真を撮るヤツは、良い写真がわかるだろうと任せてくれた。でも、不思議なんだよね。あんなに編集長を長くやっていたのに、コンタクトにしてみたら、オレがいいなと思う写真は自分では選んでないわけ。選び損なったのに、いいのがあるんだ。一種のコンプレックスがあったんだよ。その頃は木村伊兵衛だろ。自分の写真なんか到底及ばないと思いこんじゃってるからね。木村伊兵衛の写真に比べたら発表するようなものじゃないって。木村伊兵衛の写真の良さがわかるから、積極的に作家活動というか、自分の写真は発表しなかった。あの人、貪欲じゃないから。何かを利用してなんとかっていうのもないんだよ。アマチュアだし、編集者だからっていう、奥ゆかしい人だったからさ。桑原さんの初めての個展(「東京1930―1940――失われた都市」、1973年)のプリントもオレがやったんだよ。写真も一緒に選んだんだ。
桑原さんも奥さんも、二人とも死んじゃったなぁ。この写真はお花見のときだね。桜の頃はいつも呼んでくれたんだよ、馬事公苑の家に。八重桜がきれいでね。これ、素晴らしいよ。やっぱり、写真っていうのはこういうもんだっていうのがね。自分で撮っててなんだけど、いい感じ出ているよ(笑)。桑原さん、亡くなったの、94歳かぁ(2007年に死去)。じゃあ、もうちょっとオレも生きなくちゃならないね。
(構成=内田真由美)