<29>恩師・桑原甲子雄さんはずっと応援してくれたんだ
オレにとって恩師というのは、桑原甲子雄さん(写真家・写真評論家)なんだよね。まだ大学を出て電通に入った次の年ぐらい(1964年)で、オレがカメラ雑誌に写真を応募していた頃に、桑原さんが編集長をやっていた『カメラ芸術』(1964年4月号)で、16ページのグラビア特集をやってくれた。無名のオレに、一番最初に声をかけてくれた。その頃はないからね、まだ無名なのに、16ページなんてさ。オレが24歳のときだよ。(桑原は、1948年に写真雑誌『カメラ』誌の戦後3代目の編集長就任を皮切りに、『サンケイカメラ』、『カメラ芸術』、『季刊写真映像』、『写真批評』、『フォトコンテスト』などの編集長を歴任した。)
まだ無名のオレに16Pグラビア特集
桑原さんも生まれが下町の下谷(現在の台東区東上野)で、オレが三ノ輪で、同じ地区なんだ。オレのことをいいと思ってくれたのは、そういうこともあるんじゃないかな、同じ下町だって。カメラ雑誌の編集長をやっているから他の雑誌も見ているじゃない。オレは学生時代から雑誌の写真コンテストに応募しているから、オレの写真をいろんな雑誌で見ている。『日本カメラ』や『アサヒカメラ』や『カメラ毎日』とかね。だから、「さっちん」をね、下町の子どもたちの写真を撮っているのも知っている。投稿すると、みんな賞を獲るわけだよ。雑誌に投稿したオレの写真を見ていてくれたんだ。
オレは、さっちんや弟のマー坊や子どもたちの写真をバラバラにして応募していた。同じ時に撮ったのを、『アサヒカメラ』と『カメラ毎日』に出して、どっちも入選しちゃうと、両方に掲載されるんだよ。一種の二重応募みたいなものだよね(笑)。桑原さんは、オレがバラバラにして出してたのを見ていて、「写真をバラバラに発表しないで、僕にやらしてくれないか、ページを作るから」って言ってくれたんだ。
「見いだしたのは自分だ」と言ってくれていた
「さっちん」で「太陽賞」を獲っただろ(1964年「第1回太陽賞」受賞)。桑原さんがやってくれたグラビア特集は「マー坊」。桑原さんは、荒木を最初に見いだしたのは自分だとよく言ってくれてたらしいんだ。「太陽賞」への応募が先なんだけどね。でも、お父ちゃん(桑原)はさ、自分が先だってみんなに言っているからさ。そうだそうだって(笑)。やっぱりお父ちゃんが見いだしてくれたというのがいいじゃない。嬉しいよね。その後も、オレのことを、ずっと応援してくれたんだ。
(構成=内田真由美)