<24>死んでいなくなるとその存在は「エンドレス」になる
チロがいなくなって、日曜日は、とくに寂しかったね。休みの日は、ずっと一緒にいたからさ。朝、オレがシャワーを浴びようとして風呂場に入ると、一緒に入ってきてさ、ピチャピチャって、風呂桶の水を飲むんだよ。それから、テレビで「日曜美術館」(NHK Eテレ)を観ながら、チロを膝の上に乗せて、ブラッシングするのが、いつもの日曜だった。
朝はね、チロがオレを起こしてくれてたんだよ。ドアから覗いて「ニヤー」ってね。だから、チロちゃんが亡くなってからも、ずっと、ドアを少しだけ開けて寝てたんだ。閉めて寝られなかったんだよ。起こしに来てくれるかなってね。来るはずないんだけど、もしかしたら……なんて思っちゃうんだよね。チロが死んだと思えないでいたよね。
■無になるどころか、むしろ永遠になる
不思議なもので、死んでいなくなると、その存在はエンドレスになるんだよね。無になるんじゃなくて、無になるどころか、むしろ永遠になる。日常は、無常にならない。よけい日常になるんだよ。無常になるのは、自分が死んだときだけかもしれないね。一緒に過ごした時が、時間が、ずっと続いていくんだよ。
カメラを向けたらね、チロの目に涙がたまってんだよね…
やっぱりね、ロスじゃないけど、写真を撮ることで埋めていたかもしれないね。陽子が実家から仔猫をもらってきて、最初にチロが来たときは、ネコロリコロリだろ。最後はさ、最後の写真を撮るぞー、ポートレート撮るぞーというときに、クッと目を見開いたときとかさ、そういうのを覚えている。最後はね、もう倒れてて。その姿も、最後まで撮ってる。
チロの最後のポートレートを写真集にも入れてるけどね(『チロ愛死』、『センチメンタルな旅・春の旅』 ともに2010年刊行)。そのときには、もう力がなくなってるから、チロは近くまで来れないんだ。いつもはペンタックスの一眼レフで、35㎜で撮るんだけど、このときは50㎜のレンズに変えて撮った。チロに「ポートレート撮るぞ!」って言って。「さあ、こい!」って。カメラを向けたらね、チロの目に涙がたまってんだよね。
(構成=内田真由美)