蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
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(118)面やつれの菊之丞に蔦重は小躍り
ウォーーン。深夜の日本橋界隈、森閑とした町に野良犬の遠吠え。一陣の春風が土埃を舞いあげた。 耕書堂の一室では蔦重と写楽が対峙している。両人とも精魂尽き果て、眼だけがギラつく。 行燈の…
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(117)一瞥しただけで紙片を破り捨て
ピリピリピリ。蔦重は無情にも一瞥しただけで、黙って紙片を破り捨てた。 恨めしそうな能楽師、つい先日までなら血相を変えるところだったが……。今ではその気概も失せたのか。 いや違う。腸は…
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(116)貴殿の素性は徹底的に隠します
蔦重、尋常ならざる絵を描く十郎兵衛を前に思わずペロリ、妖猫さながらに舌なめずりをした。 「貴殿は追い詰められた鼠も同然です」 「はあ?」、十郎兵衛は訝し気に見返す。「今だっ」、猫ならぬ蔦…
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(115)こんな絵を描く御仁がいたとは
義兄の次郎兵衛は、引手茶屋蔦屋と蔦屋耕書堂の創業二十年を寿ごうという。 「本当なら一昨年が周年記念だが、ご改革のおかげでやりそびれちまっただろ」 「残念だったね」、しかし、御上をおちょく…
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(114)春朗の成果はもう少し先
西村屋与八はそろそろ五十に手が届くはず。髪は抜け落ち坊主頭になっている。 「蔦重、まさか堀江町へ豊国詣でじゃあるまいな?」 図星だった。歌川豊国は新進気鋭の浮世絵師、明和六年生まれとい…
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(113)オレに役者絵を描かせる気か!
女郎屋の畳は目に汚れが詰まっている。膳に載る酒器や皿は縁が欠けていた。 蔦重はようやくいった。 「他でもない、次の仕事の相談をしたいのです」 歌麿は女の乳を弄っていた手を抜き、…
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(112)襦袢の大年増の腰に手を回し
トントントンッ、小気味のいい太鼓の音、芝居小屋の櫓の両脇には見せ場と人気役者を描いた派手な絵看板。呼び込みの木戸芸者が、掌に三遍「助六」と書きペロリと舐めた。所作は「助六」の名場面、人気役者の声色で…
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(111)政治の実権は二十歳の家斉に
耕書堂の一角、主人に女将、番頭がぼうっと突っ立っている。そこだけぽつねん、別の空間のよう。蔦重はようやく、ポカンと開いたままだった口を動かした。 「えっ、いま何ていった?」 「耕書堂を辞…
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(110)馬琴に滑稽路線は似合わない
とせが鼻歌まじりで本棚を雑巾がけしている。 女房は五つ年下だから数えの三十九。世間の相場じゃ姥桜と陰口される年齢だが、ずっと若くみえるし、若やいだ心を失っていない。重三郎は思う。 「当…
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(109)春朗にはいろんな分野の絵を
のそり、偉丈夫の若手絵師が入ってきたので、京伝の部屋が手狭に感じられた。 「あんた北尾重政親分よりデカいんじゃないかい?」 蔦重が両国広小路の見世物の象を前にしたように、勝川春朗をみあ…
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(108)母と生き別れて三十五年
大江戸は八百八町、絵草紙屋の数も八百八軒──とまではいかぬが、ここぞという所に必ず本屋はある。 「江戸中が艶っぽい女で埋め尽くされました」 どの店を覗いても耕書堂開板、喜多川歌麿画の、…
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(107)色香立ち昇る「浮気之相」
歌麿は錦絵の試し摺りを前に長考している。 だが、その沈黙は決して重々しいものではない。むしろ、せり上がってくる喜色を堪えるのが大変そうだ。摺師の吐き出した紫煙がゆっくりとたなびく。 「…
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(105)文武、文武というて夜も寝られず
本屋の女房、思わず欠伸を漏らし、急いで手を口へ。ふわ~っ、旦那も大欠伸。 「伝染ったじゃないか」 「だって暇なんだもん」 蔦屋耕書堂、讀賣の誹謗中傷で客足が遠のいた。 「重…
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(104)ホントは挿絵の罰金刑で意気消沈
蔦重は地本問屋に出された触書を京伝に示した。 「定信公はよっぽどダメって言葉がお好きのようです」 「罷りならぬ、が八か条」 「庶民にもご改革のとばっちりがきて、両国川開きはシケたも…
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(103)黄表紙の開祖は類をみない反骨の士
迫りくる寛政の改革の締め付け、耕書堂いじめ。しかし、そんな定信の意向が蔦重の反骨の焔に油を注ぐ。 ようよう傷の癒えた本屋、小粋な格子の着物姿、二つ折りの手拭いを月代に乗せ、髷の後で両端を結ん…
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(102)蔦重は満身創痍。京伝もお咎め
蔦重の、近頃めっきり肉づきがよくなった背に、とせが軟膏を塗りたくる。 「もそっと、やさしく」 「あたしのせいじゃないって。傷が酷すぎるんだもん」 枕元には、江戸を代表する戯作者に…
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(101)あとは山東京伝に任せよう
日本橋に近づいたところで駕籠が止まった。担ぎ棒を外した後棒が念を押す。 「旦那、本当にここでよろしいんでがすか?」 「うん。少し歩きたいんだ」 よいしょ。蔦重は妙に重い身体をずら…
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(100)寛政の改革で女髪結いが禁止
小粋だが地味ななりの女が、道具箱を隠すように抱えて耕書堂へ。帳場にいた蔦重、そっと小僧に命じた。 「中へ入って貰いなさい」 女は面を伏せ、足早に奥へ。すぐさま居間から、とせの小さな歓声…
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(99)歌麿が虫と草花を見事に活写
亭々たる背丈の男、どうと樹木が倒れたが如く、神田弁慶橋のたもとの草むらに突っ伏している。 男の右手には焼筆、眼の前に画帳、左手には天眼鏡。息を凝らし、眼も凝らし一心にみつめる先には虫。眼光叢…
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(98)今が桜花盛りの御殿山
盆と正月が肩を組み、いっぺんにきたのか。それとも弱り目に祟り目なのか。 「洪水が引いたと思ったら、矢継ぎ早にえれえこったぜ」 「何がどうして、どうなった。オレに黙って何をした」 …