(114)春朗の成果はもう少し先
西村屋与八はそろそろ五十に手が届くはず。髪は抜け落ち坊主頭になっている。
「蔦重、まさか堀江町へ豊国詣でじゃあるまいな?」
図星だった。歌川豊国は新進気鋭の浮世絵師、明和六年生まれというから、蔦重と十九歳違い、息子も同然の若者。だが、このところ急激に腕をあげている。
このままうたさんを説得できねば、そろそろ次の候補を絞り込まねばならない。
与八はしたり顔になった。
「役者絵といえば大首絵の勝川春章、その春章亡き後を誰に託すべきか?」
江戸の本屋なら誰もが気にかけていることだ。
「もっとも耕書堂にゃ歌麿がいるし、春章の弟子の春朗も懐いているらしい」
文は挫け気味だが、京伝こと政演の絵という趣向だって捨てたもんじゃない。
「おっと政演の師匠の北尾重政だって健在だもんな」
「ウチはともかく与八さんは豊国さんに白羽の矢を?」
与八は皮肉を効かせた。
「歌麿のおかげで鳥居清長の八頭身美人はおじゃん。豊国の役者絵で捲土重来だ」
歌麿の美人大首絵が西村屋の抱える清長を霞ませたのは事実。蔦重は話を戻す。
「で、豊国攻略の首尾は上々だったんですか?」
与八は豊国宅を振り返る。
「見事にフラれちまった。豊国には和泉屋市兵衛がガッチリ喰い込んでやがる」
ツルリ、与八は頭を撫す。
「あいつに役者絵を描かせる魂胆なら諦めることだ」
無駄足を懸念していたが、やっぱり、そうだったか。しかし、ここは和泉屋の先見と周到さに敬意を示さねば。
蔦重は白々しくいった。
「堀江町には秋の長雨に備えて傘を買いにきたんです」
「へえ」、与八は改めて蔦重をまじまじとみつめた。
「あんた、顔色が悪いし、ひどく浮腫んでいる。一度、医者に診てもらうんだな」
--この寛政五年、歌舞伎界には激震が走っていた。質素倹約令の余波で不入り続き、役者の賃金高騰も重なり本櫓三座の中村座、市村座、森田座が倒れてしまった。代わって霜月の顔見世興行から都座、桐座、河原崎座の控櫓三座が賑々しく幕開けする。
「災い転じて何とやら、控櫓の芝居は話題を集めます」
蔦重の狙いはここだ。人気抜群の歌麿に新登場の三座の舞台を描かせたら、羽が生えたように売れるは必定。
「だが、しょせんは絵空事」
うたさんを凌ぐ絵師……。
堂々巡りの蔦重だった。
--結局、耕書堂は年内の役者絵進出を断念したばかりか、寛政六年の新春興行も見送った。
「適任の絵師がみつからぬ」
一番手と目した春朗に機会を与えてみたが、まだまだ師の春章の役者大首絵の型から抜け出しきれない。
「春朗さんは狩野派の絵まで学ぶ熱心さなんだが」
でも、その成果はもう少し待たねばならぬようだ。
「それより他派に擦り寄った咎で、春朗さんは勝川一党を破門されてしまった」
今後も春朗の面倒はみるけれど、敢えて彼を起用し勝川派と敵対するのも剣呑。
「大江戸役者絵大会を催し、大型新人を発掘しますか」
そんな折、義兄の蔦屋次郎兵衛が顔をみせた。
「こっちへくるのは久々だ」
迷っちゃなんねえから“江都本町筋下ル八丁目通油町”と唱えながら歩いた。
「兄さんらしいや」
兄は知命の歳を過ぎ、吉原でいっぱしの存在に。それを支えるのが女房のおもん、息子もそろそろ二十歳、引手茶屋は安泰のようだ。
(つづく)