蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
-
(57)死に顔は冴え冴えと美しい
吉原の目抜きの仲の町通り、お上臈がそろりそろりと外八文字に三本歯の駒下駄を進める。道の左右を埋めた人々がどよめく。 重三郎は駿河屋の二階から花魁道中を眺めている。隣に立った叔父が問わず語りの…
-
(56)あちしの艶姿、とくとご覧なんし
重三郎は兄の怒声を浴び駆け出した。 吉原大門を出た五十間道には、茶屋や商家が立ち並ぶ。店々の子どもたちが、「蔦屋」の前で凧遊びや突く羽根に興じているのを押しのけた。 「兄さん、どうした…
-
(55)前書きが平賀源内とはたまげた
妓楼の二階はお上臈の主戦場、夜ごと艶事が繰り広げられる。 その階段口のすぐ横が遣手部屋、遣手はここから遊女と遊客の挙動を抜かりなく監視する。 大文字屋の遣手部屋では、かげろうと蔦重が…
-
(54)花見が一段落したら夫婦になろう
蔦屋重三郎と花魁小紫、ふたりの仲を、道ならぬ恋と咎め立てる吉原の者は案外と少なかった。 叔父の利兵衛は泰然にして自若の態でいう。 「入れ揚げた男が公金を持ち出したり、女だって足抜けした…
-
(53)ひとつ蒲団の中、頬を寄せ
小紫は重三郎の胸に顔を埋めながら、恋しい人の一計にききいっている。 重三郎も小紫の体調を気遣いつつ、気づけば饒舌に。 「吉原を儲けさせる方法はいっぱいある」 吉原の弱点は、吉原…
-
(52)蔦重には新しい企てが山盛り
吉原の裏通りでは、かげろうと銀波楼の女将がくんずほぐれつの大乱闘、怒声どころか手足まで振り回し、着物の裾は乱れ、土にまみれるありさま。 そこへ丸い影、大玉が転がるように走りきた男、女たちの前…
-
(50)逢いとうござりんした
夜気に寒気が交じる。だが、吉原を行き来する遊客たちは上気している。 妓楼と妓楼の間の脇道、そこに吉原の若い本屋がサッと入っていくのを見咎める者はなかった。 「小紫さん……」 重…
-
(49)文を読む重三郎に緊張感が
線香たなびくお盆、お上臈が白の小袖に身を包む八朔、菊花の浮かぶ盃を呑み干す重陽の節句──。 蔦重にとって安永二年(一七七三)、二十三歳の秋は足早、たちまち八月、九月と暦が代わっていった。 …
-
(48)お上臈を芍薬に木蓮になぞらえ
絵師北尾重政の仕事場は、整然としている。 画材、紙、資料などは棚と葛籠に仕分けされ一目瞭然だ。重政の細部にまで気を配った画風は、こういう心がけの賜物なのだろう。 そして、柱に掛かって…
-
(47)ちょっと転んだだけです
絵師の北尾重政は絵筆を持ったまま、まじまじと重三郎をみた。 「蔦重、派手にやられたな」 本屋の仕事の際、人々は蔦屋重三郎を約めて蔦重と呼ぶ。暴行を受けてから半月、蔦重は大伝馬町三丁目に…
-
(46)一途な若者が血ヘドまみれ
叔父の利兵衛は腕を組んだまま眼を閉じている。唇をへの字にしての長考、瞼が時折ピクピクと震える。 ようやっと喉に痰がからんだような声を出した。 「お上臈が妓楼から寮へ出養生させてもらえる…
-
(45)あの寮に小紫さんがいる
大川べりの老舗料亭、重三郎は二階の窓から身を乗り出している。その背におもんの毬が弾むような声。 「鰻の蒲焼がきました」 「………………」 だが重三郎は粋な造作の寮(別荘)から眼を…
-
(44)土用の鰻は安永の新しい流行り
吉原大門を駕籠が出ていく。 中を改めた、会所に詰める吉原の男たちが駕籠を見送るかたちになった。 そもそも吉原は駕籠の乗り入れ禁止、例外は町奉行の裁可を受けた御免駕籠、そして医者くらい…
-
(43)南畝の狂詩狂文集、序文源内
小紫が本を差し出した。 「重さんは御存知かえ?」 蔦重は貸本や細見の仕事にかこつけ、花魁の本間に上がり込んでいる。 もっとも水入らずというわけにはいかず、小紫付きの禿がこちらを…
-
(42)葛饅頭も三日にあげずでは…
このところ、何だか義兄の機嫌がとってもいい。 ちょいと能天気なところのある次郎兵衛、何かというと向島へ行きたがり、やたらと葛饅頭を買い込んでくる。重三郎はボヤく。 「うまいけど、さすが…
-
(41)次郎兵衛が待乳山聖天に参拝
吉原から日本堤を東へ半里(二キロ)、待乳山聖天で手を合わせているのは、吉原大門横の引手茶屋「蔦屋」を率いる次郎兵衛だ。 社殿を出た次郎兵衛、山谷堀へ踵を返すのではなく渡し船に乗った。銀波、金…
-
(40)助六が吉原をそぞろ歩けば
仕事を終えた蔦重、大きな算盤を弾いて帳簿をつけている。 パチパチ。珠は柘植、枠と梁が黒檀の高級品、耕書堂の開店祝いに叔父が贈ってくれた。 「立派過ぎるんじゃ……」 「江戸をひっく…
-
(39)ははアん。情婦から貰ったんだな
妓楼の内風呂、面格子の間から入る早春の朝陽が裸体を浮かび上がらせた。湯のせいで雪白の裸体が桜色に染まっている。 花魁は首筋から肩、胸乳へと糠袋を滑らせていく。 「少し、痩せいした」 …
-
(38)オレらは蕎麦でもたぐるか
蔦重は吉原細見の表紙をやさしく撫でた。 「私が見違えるような冊子に仕立ててやるよ」 鱗形屋みたいな本屋に開板(出版)されているこの小冊子が不憫でならない。 蔦重は花魁小紫と交わ…
-
(37)細見が山積みじゃないか
茶屋「蔦屋」の玄関、上がり框の隅、棚の隣に小さな座布団を敷き、蔦重はちょこなんと座った。「耕書堂」の主にして店員兼小僧、そして貸本屋。時には茶屋の下足番にも変じる。 「細見、ひとつ貰おうか」 …