蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
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(97)定信の怜悧な横顔が歪む
江戸は小峰城の遥か南にある。若き藩主松平定信は窓辺から東都を遠望した。 「早晩、私は出府することになろう」 臣下の半蔵は膝行して藩主のもとへにじり寄った。 「ご下命がございました…
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(96)田沼意知が城内で刃を向けられ
蔦重が障子を引くと、喜三二と春町がこちらを物憂げにみた。両人の前には空になった膳が二客、ぽつんという感じで残っている。少し開けた窓から、六月のねっとりした風が忍び込む。 今夜、吉原の引手茶屋…
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(95)京伝鼻は艶二郎の代名詞
齢の頃は七つか八つ、男児が鼻歌まじりで絵を描く。 「雲がひとつに、柿の種ふたつ、京伝鼻の出来上がり」 どうだ、得意気に半紙をかざす。「艶二郎そっくり」「オレの方が上手」、周りの子どもた…
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(94)とせは素早く歌麿の襟をとり
とせは帳簿をつけ終わり、軽く伸びをする。 「戯作と狂歌、両輪が廻って千客万来、商売繁盛」 今夜も夫は酒宴、狂歌を集めたり、戯家の同士と次作の案を練ったりしている。 ふと背後に気…
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(93)上野忍岡でうたまるのお披露目
蔦重、皆の手に白い団扇が渡ったことを確かめた。 「今夜の酒肴いや趣向は“団扇合わせ”でございます」 鋏に絵具、筆の用意も怠りなく。蔦重、上座に鎮座まします南畝へ視線を送る。御大、ウムと…
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(92)黄表紙は歌麿に画を任せ
恋川春町は口へもっていきかけた盃を止めた。 「とうとう、ですか!」 蔦重、先にお酒をどうぞと目顔で示す。天明三年(一七八三)九月、蔦屋耕書堂は日本橋通油町への進出を決めた。通油町をいけ…
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(91)二匹目の泥鰌でも大きければ
夕暮れになると、耕書堂は妓楼に負けず江戸の文人墨客で大賑わいになる。 その日も、真っ先に顔を出したのは大田南畝。いつしか狂歌の頭領役が板についてきた。継ぎ接ぎ着物は今や昔、小洒落た衣装で粋人…
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(90)お上臈が困惑に身を染める
お上臈が佇んでいる。 雪の肌に海老茶の乳首、黒々とした叢、女体を彩る色の対比は鮮烈、柳腰から豊かに膨らむ尻の曲線が艶めかしい。 「そろそろ、終わりにしておくんなんし」 お上臈は…
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(89)申し出に南畝は眼をぱちくり
蔦重が南畝に差し出した土産、それは墨痕あざやかな筆致の狂歌だった。 「高き名のひゞきは四方にわき出て赤ら赤らと子どもまで知る」 詠み込まれた四方赤良は、南畝が狂歌で使う狂号、それ自体が…
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(88)仕舞い忘れの鯉のぼりが青空に
端午の節句は過ぎたのに、仕舞い忘れ、それとも面倒なのか、まだ鯉のぼりを青空に吹かせている家がある。 神楽坂界隈、蔦重は毘沙門天様の少し北を左、「相馬屋」なる紙問屋をみて地蔵坂をいく。目指すは…
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(87)遣手婆も目頭を押さえ
蔦屋耕書堂がお江戸をひっくり返した! 吉原の大文字屋市兵衛をはじめ妓楼の主は驚いた。 「客は大門の前で左に曲がって耕書堂へ入ってしまう」 三千余といわれるお上臈たちは我が事のよ…
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(86)当今、大先生といえば
大川に架かる両国橋を渡って回向院の手前が元町界隈、東都で指折りの歓楽街だ。その両国元町にある居酒屋に、若旦那風の男がちょくちょく顔をみせる。 静かに盃を傾けているが、陰気な酒ではなく、いつも…
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(85)戯作はうまい酒と同じ
グラリ、きゃっ。 猪牙舟が傾ぎ、とせの手をとった重三郎、口をついたのは流行の戯れ歌だった。 「みぎひだり猪牙は揺れども懸念すな本屋の大志忘るることなし」 とせもすかさず応じた。…
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(84)猪牙舟は吉原通いの遊客の足
重三郎は線香の煙の行方を万感の想いで追う。煙はまっすぐに立ち昇ったあと頭の上でたなびき、ゆっくりと消えていった。 墓前で手を合わせていた、とせが振り返った。 「小紫さんといろいろお話し…
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(83)狂歌の大本は寝惚先生こと大田南畝さん
ふわふわ、白い蝶が宙に浮かぶように飛んでいる。 政演は手拭を懐に収めた。 「やっと冷や汗が引いた」 どうなることかと心の臓が止まりそうでしたよ。政演は歌麿との一件を振り返る。蔦…
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(82)歌麿の画才は磨けば輝く珠玉
泣きながら飛び出してきたのは若い女。その後姿を見送る形になった蔦重と政演、気を取り直して開けっ放しになった家を覗きこむ。 ぷ~ん、蔦重は酒の匂いに鼻をひくつかせた。叔父や義兄の茶屋で出す上方…
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(81)政演の「夜野中狐物」が大評判
寛永寺をいただく上野忍岡の森の道、木漏れ日のやわらかさが気負う心を撫でてくれる。蔦重は連れ立って歩く北尾政演にいった。 「わざわざ申し訳ない」 「お気になさらず」 蔦重、重政一門…
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(80)耕書堂の黄表紙、分けてくれ
最後の荷を大八車に積む。 蔦重は前垂れをはたいた。とせも姉さん被りの手拭いをとる。重三郎は爪先立ちになり、ほつれ毛を直してやった。とせは首筋まで赤らめる。 「うれしいけど恥ずかしい」 …
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(79)とせの笑窪を指先で甘く突く
祝言の夜、新郎新婦がひとつ蒲団を前にしている。 山と積まれているのは艶本、世にいう枕絵、春画というやつ。戯家の同士から新婚夫婦へのご好意溢れる、お節介なご進物。 蔦重、やれやれといい…
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(78)白打掛のとせが喜色に染まる
祝宴の規模はささやか。だが、集まった客の顔触れは豪勢。今しも、長い顔を美酒で朱に染めた富本豊前太夫が、祝儀の曲『長生』を披露したばかり。 当代人気随一の浄瑠璃語りは重三郎に頭を下げた。 …