蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
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(77)耕書堂の同士になってほしい
浅草寺界隈はいつに変わらぬ賑わい、雑踏を男と女が連れ添っていく。 何人もが振り返るのは、やはり女の背丈が目立つから。しかし、女にそれを気にする素振りはない。とはいえ、彼女の心の鏡には、細かな…
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(76)喜三二、春町、重政が思案
黄表紙の総本山、鱗形屋の店先は黒山のひとだかり。 「どけ、散れ! 片っ端からしょっ引くぞ!」 役人が野次馬を蹴散らす。蔦重は爪先立ちになり群衆の後から覗き込んだ。 「鱗形屋孫兵衛…
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(75)かような世情の大本は田沼に
田沼意次が退出しようと立ち上がった時、つっと近寄ったのは松平康福だった。 「主殿頭、相談がござる」 康福、田沼と同い年で同職の老中ながら、幕僚としては先輩格、家柄も数段よい。しかし幕府…
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(74)本日、江戸で一番新しい本屋に
初霜が降りたその日、蔦重は「蔦屋耕書堂」の看板を掲げた。富士山形に蔦の葉の商標がまばゆい。拍手と歓声が高く蒼い空に響く。 「ありがとうございます」 蔦重、面映ゆそうに頬を綻ばせ、深々と…
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(73)誰もが競って黄表紙を買っていく
店の外でとせの悲鳴、蔦重は気が気でない。 「どうした、大丈夫か!」 耕書堂の店先はそのまま引手茶屋「蔦屋」の店頭、吉原大門のすぐそば、緩い勾配の衣紋坂へ三度曲がって繋がる五十間道にある…
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(72)耕書堂の新作「娼妃地理記」
それでなくとも手狭な耕書堂、五尺六寸という長身の娘がいるとイヤでも人目を引く。いかにも嵩高い。 だが、とせは根っから快活なうえ、あれこれ些事に拘泥せぬ、さばけた性格だ。 「両方とも面白…
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(71)勝負の錦絵を絵師・湖龍斎で
蔦重はウキウキと芝居町から吉原へ戻ってきた。 「今日は験がいいぞ」 そんな蔦重に、嫂のおもんが長男坊をあやしながら告げる。 「お客様がお待ちかねよ」 「はて、どなただろう?…
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(70)目印は毛筋が透けるほどの燈籠鬢
娘は背が高い分、脚も長い。すいすいと人の波間を進む。片や蔦重はあっぷあっぷ。 「痛てッ、足を踏んでるぞ」 「ごめんなさい」 「てめえ、肩がぶつかった」 「失礼しました」 …
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(69)富本豊前太夫は仇名通りの馬面
筆をおき、帳面を閉じる。腕を組み、眼をつむって、唇を結ぶ。そして唸る。 「う~む」蔦重の頭の中で、やりたいことが大声でやりあっている。こっちが先だ。待て、それの方が大事、ダメダメまずはあっちを…
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(68)源内が雷神を封じ込めたらしい
昼下がりの吉原、鱗形屋孫兵衛が油ぎった顔に好色を上塗りして花魁を迎える。さほど遠くもないところから、蔦重が注視しているのを気づきもしない。 蔦重と並んで座る娘が、心配そうに彼をみやった。 …
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(67)喜三二が少し遅れて宴席に
吉原大門、男は気軽に出入りできる。だが女となれば童女から媼に至るまで、そうは問屋いや会所が許さない。会所には、妓楼から派遣された強面の男たちが門番として詰めている。 蔦重は若い女客にいう。 …
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(66)大文字屋市兵衛の眼がギョロリ
吉原の顔役、大文字屋市兵衛の前には本と摺り物、それに分厚い大福帳。 ギョロリ、クルリ。市兵衛は丸ぁるい眼を剥いたり回したり。唐芋さながらの太短い指で、本と帳面を交互にめくったと思えば、おもむ…
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(65)これぞ名鑑「青楼美人合姿鏡」
書院風に設えた蔦屋の小座敷、丸窓から夏陽が差し込む。蔦重は春町と向き合った。眼顔で問う蔦重、春町はうなずく。 「鱗形屋の手代、徳兵衛とは面識がありますか」 もちろん。陰で蔦重のことを「…
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(64)重政、春町、喜三二が勢揃い
吉原大門の前、ふたりの男が影をつくっている。 「重政親分と春町さんは馴染みの妓楼へ。平沢、いや喜三二さんは?」 蔦重の言問い顔を、揺れる松明の灯が照らす。パチリ、喜三二は碁盤に石を置く…
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(63)「金々先生栄花夢」が大当たり
お江戸日本橋界隈、魚河岸は日に千両の大商い、負けてはならじと呉服屋や問屋が荷物満載の大八車を繰り出す。 その一画、大伝馬町では書肆鱗形屋の店頭が押すな押すなの大混雑、皆々のお目当ては『金々先…
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(62)白皙の武家こそ恋川春町
篠笛がピィ~、ピッピッ、太鼓と鉦はドドン、ドンドンにチン、チン、チン。 獅子が大口を開け重三郎の頭を噛んだ。 「邪気は喰らいました。これで今年は安泰、大躍進!」 獅子が吼え、義…
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(61)戯家であらねばなりますまい
蔦重は口元が緩むのを堪えきれない。 道行く人がチラチラと視線をくれるのに気づいているものの、性懲りもなくニヤついてしまう。 ──重政から紹介された、絵と文を達者にこなす侍は毅然とした…
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(60)色街でのモテ指南「当世風俗通」
蔦重は北尾重政を前にひとくさり、鱗形屋との決別の次第を語っている。 するりと開いた障子、弟子が来客を告げた。 「お武家の方が……」 蔦重は麦湯を呑み干した。 「私はお暇し…
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(59)竹を買って色紙短冊を飾ろうか
江戸有数の書肆、鱗形屋の客間では侍が主人の孫兵衛を待っている。応対する手代の徳兵衛は、下卑た笑顔にたっぷり阿りをまぶしていう。 「チト、風呂敷の中身を拝見させていただいてよろしいかな?」 …
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(58)お前の細見なんか捻り潰してやる
鱗形屋の狭い座敷で長々と待たされているが、出がらしの茶ひとつ出てこない。 だが蔦重は大書店の主への苛立ちを表にしたり、小さな本屋の悲哀を噛みしめ、憮然としたわけでもない。冷遇されるほど静かに…