蔦屋重三郎外伝~戯家 本屋のべらぼう人生~
-
(16)二畳しかない部屋に紅摺り絵
重三郎はたった二畳しかない小部屋にあがった。 擦り切れた畳表、三つ折りにした蒲団。柱に貼られた紅摺り絵は人気女形の中村粂太郎、石川豊信が描いた作だと目星をつける重三郎だった。 隅に積…
-
(15)女体の匂いが鼻先をくすぐる
かげろうは重三郎にすり寄ると袖を引いた。 「立ち話もナンだし。よかったらウチへくるかい?」 白粉だけでなく煮詰めたような女体の匂いが鼻先をくすぐる。その鼻のすぐ下にお上臈の濡れた双眸。…
-
(14)津与さんには世話になった
重三郎が呼び止めた貸本屋、前の方からも手招きされたようで、大きな荷を担いだまま右往左往している。 「こっちこっち」 女の声がして、貸本屋はそっちへ歩をやりかける。 「与八っあん!…
-
(13)貸本屋を呼び止める声がこだまする
線香の煙がゆっくりとたなびく。重三郎は供養塔に頭をたれ、手をあわせた。 先日、足抜けを企てたお上臈が激しい折檻の末に果てた。亡骸が吉原にほど近い下谷三ノ輪の寺に葬られたと知り、重三郎は居ても…
-
(12)日課は燕の落とし物の掃除
燕の子が、かまびすしい。重三郎はその下でせっせと箒を使っている。 親鳥は雛の口に餌を放り込んでやる。雛が静まるのは束の間、すぐまたジージーとヤスリを摺りあわせたような濁声をたてた。親鳥は一瞬…
-
(11)白日の吉原に遊女の哀しい声が響く
灰褐色の土煙が舞う。 白日の吉原、仲の町通りを若い遊女が駆けてきた。肌襦袢一枚、裸足の女は必死でわめいている。だが、それは言葉にならない。悲鳴とも呪詛ともつかぬ、おぞましく哀しい声が響く。 …
-
(10)母の髪にフワリ花びら
ペッ。義兄は掌に唾をくれると鬢に撫でつけた。 「ちょっくら、いってくるぜ。親父には黙ってろよ」 いっちょ前の色男気取り、叔父のいう「吉原で育ちゃマセて当然」そのもの。どうせ良からぬ遊び…
-
(9)お上臈にまで母の面影を求め
叔父は裾の埃をはたくと帳場に戻っていった。重三郎は叔父の後ろ姿を見送った視線を格子の外へやる。 「あっ」 視線の先に年増のお上臈さん。着物の衿、首の後ろの衣紋をグイッと抜き白い柔肌が覗…
-
(8)吉原で育ちゃマセて当然
重三郎は叔父のもとで暮らし始めた。両親と離れ離れになった少年には翳が宿った。友人といえば本、頁を繰るのに飽いたら見るともなく外を見る。引手茶屋「駿河屋」が面する仲の町通りは吉原を貫く大路だ。 …
-
(7)これっきり、父はいなくなった
重三郎は父の重助がいなくなった日のことをよく覚えている。 あの日、重三郎は寝っ転がって絵草紙を読んでいた。楠木正成の最期、湊川の決戦を描いた画に胸が躍る。 廊下を渡る音がして、眼を上…
-
(6)重三郎は絵草紙ばかりか漢籍も
〈第1章〉 本屋の生い立ち 差し込む光がまぶしい。少年は長い睫毛を瞬かせ、蒲団の中で身体を伸ばした。 チチッ、チュンチュン。雀のさえずりが妙に大きい。いつもは煮炊きや掃除、洗濯…
-
(5)恋女房が武家を不意打ち
客人たちを妓楼へ送り終えた蔦重、叔父が営む駿河屋の勝手口からすっと身を滑らせた。月光と軒灯で足元は明るい。提灯の代わりに女房への手土産のきび団子をさげている。 宴席の勘定は自腹、宴を盛り上げ…
-
(4)おのれ田沼意次め
若い武家の憤怒は尋常にあらず。こめかみには癇性の証、うねうねと血管が浮き出ている。 「おのれ田沼意次め」 「お静まりを」 田沼の名が武家の口を衝いた途端、郎党たちは辺りに眼を配り…
-
(3)蔦重の酒席の階下に武士の姿
蔦重の酒席を憎々しげに見上げる武家は端正な顔立ち、そこに怜悧さが加わる。なかなかの押し出しだが、年齢はまだまだ若い。 ほどなく、彼のもとへ数人の侍が駆け寄ってきた。 「遅くなりました」…
-
(1)誰もが約めて「蔦重」と呼ぶ
〈プロローグ〉 振り袖姿の娘がひょいと細縄に飛び乗った。それを合図に三味線に太鼓、派手な音曲が座敷に響く。 ふわり、ゆらり、娘芸人は胡蝶のように末席から首座へ、皆々の頭上を渡っていく。…