(1)誰もが約めて「蔦重」と呼ぶ
〈プロローグ〉
振り袖姿の娘がひょいと細縄に飛び乗った。それを合図に三味線に太鼓、派手な音曲が座敷に響く。
ふわり、ゆらり、娘芸人は胡蝶のように末席から首座へ、皆々の頭上を渡っていく。小ぶりで形のいい尻が揺れ、スラリと白いふくらはぎが覗く。
さっきまで好き勝手に騒いでいた面々が、眼どころか息まで凝らして見惚れている。
「こいつはいい趣向だ」
恰幅のいい五十絡みの侍が隣を見やった。そこには三十歳そこそこ、柔和な顔立ちの青年が侍っている。彼は大仰に両手をつく。
「お褒めに与り恐悦至極」
「そんな真似はしなさんな」
くいっ、侍は盃をあける。
「うめえ。灘からの下り酒、酒番付で東大関を張る剣菱の瀧水じゃねえのか?」
「さすが、ご名答!」
青年が徳利を掲げ、侍は盃を差し出した。チラリ、青年が視線をやれば細縄の下に集まった男ども。娘が足を踏み外しそうになっている。裾が激しく乱れ、膝小僧まで見え隠れした。
「仕方のねえやつらだ」
「こんな時こそ羽目を外していただかないと」
「連中は年中、お気楽さ」
侍は干した盃を膝元の丼の水で洗い、青年に渡す。
「あんたこそ酔えばいい」
今宵は吉原の一角に一風変わった面々が揃った。武家と町人--戯作者に絵師、医者がいれば能楽師や旅籠、煙草屋に汁粉屋、油屋から遊郭の主まで多種多様。身分の垣根を取っ払った無礼講がお定まりだ。
「かくいう私は本屋です」
青年の名は蔦屋重三郎、誰もが約めて「蔦重」と呼ぶ。吉原で「蔦屋耕書堂」を開いて十年になろうか。蔦屋の絵草紙を手にすれば、泣く子ばかりか大人も黙って読みふける。
そんな蔦重が今夜も宴を催した。招かれたのは「戯家」のクセ者ばかり。世のあれこれを五七五七七の調子に乗せてあげつらい、狂歌でございと悦に入っている。当の蔦重は皆の間を回り、しれっといってのける。
「いい歌が詠めたらお声がけを。私が集めて回ります」
戯家の酒席こそ、太平楽の極み、されど江戸の民は文人墨客の集いに憧れを抱いている。バカを装うのは「粋」、乱痴気ぶりが「通」だと持ちあげる。
「ただの能天気だけどな」
さっきの武家が自虐する。彼は朋誠堂喜三二、当代きっての戯作者にして、さる大藩のお偉いさんでもある。
「そういや春町は?」
噂をすれば影が差す。小柄な侍が千鳥足で近づき、ふたりの間に倒れ込んだ。
「恋川春町、ここに参上」
春町と喜三二は朋友にして好敵手、戯作人気を二分している。春町は四十歳近いが、朱に染まった頬は少年のよう。重三郎は春町の身体を受けとめた。
「水をお持ちしましょうか」
「酒の上の不埒はご勘弁。毎度のことだが呑み過ぎた」
春町は酔眼を瞬かせたものの、ほどなく上と下の瞼が重なってしまった。
春町の頭を肩に乗せたまま蔦重は座敷を見渡す。彼らを活かすも殺すも本屋次第。各々の顔に次なる作の筋立てと画の趣向、売り出しの口上までが重なる。
「ふふふ」、つい頬が緩んでしまう。蔦重とて酒は嗜むし女嫌いの堅物でもない。だが、本のことを考えるのがいちばん愉しい。
思わず知らず、こんな言葉が口を衝いた。
「本でお江戸をひっくり返してみせます」
(つづく)