飯野矢住代誕生秘話<2>ミス・ユニバース日本代表に選ばれたがためにバッシングにさらされ…
《一九六八年ミス・ユニバース日本代表選出大会が五日午後三時から大阪市大淀区のABCホールで開かれ、全国七地区の代表二十一人の中から、日本代表に関東地区の飯野矢住代(やすよ)さん(一八)(略)が選ばれた。
■「私は二号の娘です」
飯野さんは一メートル六九、五一キロ、バスト八四、ウエスト六〇、ヒップ九〇。七月にアメリカのマイアミビーチで開かれる世界大会に参加する》(1968年5月6日付/読売新聞)
ここから彼女の人生は変転する。表彰式の直後に行われた記者会見で「家業は?」と尋ねられると「母は芸者の置屋をしています。私は二号の娘です」と発言。これが物議を醸した。
翌日のスポーツ紙が「二号の娘」「芸者の娘」と書き立てたのを皮切りに「ミス・ユニバース日本委員会」の役員からは暗に世界大会への出場を辞退するように求められた。この時代「日本の代表になるのは良家の子女であるべき」という価値観がはびこっていたのは事実である。いや、もしかしたら、今でもあるのかもしれない。