飯野矢住代誕生秘話<1>飯倉のイタリアンレストラン「キャンティ」で広がった業界人脈
銀座のクラブ「姫」のマダム、山口洋子が知人の紹介で会いに行ったのが、飯野矢住代という18歳の女性だった。
飯野矢住代(本名・裕代)は1950年、鉱山経営者の父と芸者の母の間に私生児として生まれた。少女時代は100坪の土地に立つ豪壮な邸宅で何不自由なく暮らした。しかし、父が破産すると邸宅を売却する羽目に陥り、母子は裸同然で放り出された。その後、転居を繰り返し、道玄坂の古びたアパートに落ち着いた。
苦しい家計を助けるために、矢住代は中学を卒業すると高校には進学せず、モデルとして働くようになる。「矢住代」という芸名もこの頃に付けられた。
その一方、「想い出の渚」などで知られるGS(グループサウンズ)の人気グループ、ザ・ワイルドワンズのコスチュームデザイナーのアシスタントとして立ち働いたり、内田裕也の紹介で初代ジャニーズ(真家ひろみ・飯野おさみ・中谷良・あおい輝彦)の付き人もこなしていた。仕事を掛け持ちしたのは生活が苦しかったためである。
やがて、彼女の美貌は業界関係者に知れ渡るようになった。多くの業界関係者が集う飯倉のイタリアンレストラン「キャンティ」で知り合ったザ・スパイダースのかまやつひろしは、矢住代が中学時代に書いた一編の詩に曲を付けて、かまやつ自身のボーカルでレコーディングしている。それが1966年7月1日にリリースされたスパイダース6枚目のシングル「サマー・ガール」のカップリング曲「なればいい」である。レコードには「オリベゆり」とクレジットされている。