飯野矢住代誕生秘話<2>ミス・ユニバース日本代表に選ばれたがためにバッシングにさらされ…
ミス・ユニバース。「美の五輪」と呼ばれる世界を代表するミスコンテストである。もともと、1926~35年にかけてテキサス州で催されていたミスコンテストを発祥とする。17年後「ミス・アメリカ」のスポンサーだった水着メーカーの「カタリナ」が独自のミスコン「ミスUSA」を開催。その世界版として名称を復活させたのが「ミス・ユニバース」だった。世界30カ国で予選大会が同時に開催され、戦後7年しか経っていなかった日本も含まれた。
カリフォルニア州のロングビーチで行われた「ミス・ユニバース第1回世界大会」はフィンランド代表のアルミ・クーセラが優勝。日本代表は小島日女子である。「日本人女性が世界の栄冠を勝ち取るのは、食生活の問題から、おそらく10年は不可能」といわれたが、翌年の第2回大会では、のちにファッションデザイナーとして活躍する伊東絹子が3位に入賞。そして、第8回世界大会では児島明子がアジア人初のミス・ユニバース世界王者に輝いた。
モデルで作詞家デビューまで果たしていた飯野矢住代が「水着を着てステージの隅っこに立ってるだけでいい」と知人から勧められたのは、「ミス・ユニバースジャパン東京予選」だった。「まあ、箔が付けばいいか」と軽い気持ちでエントリーすると、あっさり東京予選を通過し、大阪で行われた全国大会でも優勝。あれよあれよと矢住代は「日本で一番美しい女性」となった。翌日の朝刊は次のように伝える。