五木ひろしの光と影<3>松山まさるの将来性を“予言”…新人歌手の運命を変えた恩師の急逝
千秋 高音と低音がすごく魅力的だから、いままでの歌手にないカラーをもっているよ。
記事を読む限り、各レコード会社の依頼を受けたプロモーション記事に過ぎないが、どことなくその後の展開を暗示しているように見えなくもない。ともかく、当時の日本コロムビアが松山まさるを猛プッシュしていたことは間違いないらしい。17歳の彼も「俺はスターの座を約束されている」と感じても不思議はなく、事実、幸先のいいスタートを切っていることだけは疑いようがない。前年優勝者の都はるみのように3曲目でミリオンヒットという好例もある。「よし、俺も」と発奮したことだろう。8月には2枚目のシングル「恋の船頭さん」(作詞・丘灯至夫/作曲・上原げんと)のリリースも決まった。何もかもが順調に見えた。
しかし、世の中そううまくいかないものである。1965年8月14日の読売新聞夕刊に次の訃報記事が載った。
《上原げんと氏(本名絃人、作曲家)十三日午後十一時五十一分、長野県軽井沢町の町立軽井沢病院で心筋コウソクのため死去。五十。(中略)青森県出身。昭和十三年、キングから「国境の春」でデビュー。昭和二十五年、コロムビアに移った。斎藤マツエ(元のコロムビア・ローズ)などの育ての親としても知られる。ヒット曲には「上海の花売娘」「港町十三番地」「ひばりのマドロスさん」など数多い》