五木ひろしの光と影<1>NHK紅白に50回連続出場、“日大の竜”が述懐するデビュー当時
2021年10月17日、あるニュースが一斉に配信された。「五木ひろし紅白不出場を明言」という芸能トピックである。
《「昨年50回を迎え、大きな区切りをつけました。この喜びを胸に終了したいと思います」
五木ひろし(73)は自らのコンサートでファンにそう伝え、年末のNHK紅白歌合戦に出場しないことを明らかにした。歴代最長の連続出場50回。通算13回ものトリは美空ひばり、北島三郎と並ぶ歴代1位》(「日刊ゲンダイ」2021年10月20日付)
「50回連続出場」とはただ事ではない。1972年を最後に出場しなくなった美空ひばりや、2013年に出場を辞退し連続出場が途絶えた北島三郎と違って、落選も辞退もなく、半世紀も大晦日の舞台に立ち続けた。おそらく破られることはあるまい。紅白歌合戦が未来永劫続く確証はどこにもないのだから。
五木ひろしが紅白初出場を果たした1971年は、彼にとって大きな転機となった。この年から「五木ひろし」を名乗り始めている。そこには拙著「沢村忠に真空を飛ばせた男」(新潮社)の主人公、野口修が大きく関わっていた。野口修と出会っていなければ今日の五木ひろしはない。断言していい。彼自身もそう思っているはずだ。
歌手を目指し関西音楽学院へ
五木ひろしは1948年、京都市に生まれた。本名・松山数夫。8歳のとき福井県三方郡美浜町に移住する。少年時代から歌手を目指し、中学卒業と同時に京都にある関西音楽学院に入学。歌の基礎を学んだのち、翌年上京して作曲家の上原げんとの門を叩いた。この時代の歌手志望者は、人気歌手のボーヤ(付き人)になるか、大物作曲家の門下生になるのが最短コースとされた。
当時、コロムビアレコード(現・日本コロムビア)のトップ作曲家だった上原げんとは、「港町十三番地」(美空ひばり)、「東京のバスガール」(初代コロムビア・ローズ)、「逢いたかったぜ」(岡晴夫)、「逢いたいなァあの人に」(島倉千代子)と立て続けにヒットを連発、コロムビアの屋台骨を支えていた。その上原の内弟子になるということは、コロムビアレコードのバックアップで華々しくデビューを飾ることが約束されたも同然だった。
「この頃の五木ひろしを知っている」という人物がいる。極真空手第1回全日本王者で、“日大の竜”と恐れられた空手家の山崎照朝である。
「俺は歌手になるつもりなんか全然なかったんだけど、SKD(松竹歌劇団)の団員だった姉の紹介で、ひょんなことから中野にあった上原先生の歌謡教室に通うことになった。レッスンは火曜と木曜。そのときに先生の門下生だったのが1歳下の松山君。五木ひろしだよ。めちゃくちゃうまかった。『ああ、これがプロを目指すやつの実力か』って強く印象に残ってる」
上京後、明大中野高校に通学しながら、上原げんとの内弟子として下積み修業を積んだ松山少年には、程なくして「松山まさる」という芸名が与えられた。そして1964年の夏、入門4カ月にして大きなチャンスが転がり込んできたのである。=つづく