泉麻人さん明かす酒人生 酔うと右足の靴ひもを解くのがクセになったワケ
泉麻人さん(コラムニスト・作家/65歳)
東京をテーマにしたエッセーや昭和の近代史を数々刊行している泉麻人さんの酒人生は、慶応大学「広研」サークル時代やコラムニストになってからの失敗談。そして新刊「銀ぶら百年」のタイトル通り、銀座界隈での飲み屋の話を……。
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高校の頃はちょこっと飲んではいたけど、本格的に飲み始めたのは慶応大学で広告学研究会、通称・広研(コーケン)というサークルに入ってから。数年前に不祥事を起こして廃部になったらしいけど、当時は人気のサークルでした。
広研は戦後から神奈川県の葉山の海で、今でいう海辺のライブハウスみたいな模擬店的なキャンプストアの活動をやっていました。それが夏の目玉。お店は大工さんに指導してもらって学生が造る。その間は葉山の合宿所に寝泊まりして毎晩宴会やっていたんです。
■宴会芸の持ちネタは「男の子 女の子」でした
1970年代だから体育会系のノリで、先輩からチャンポンで酒を飲まされるという洗礼を受ける。その際も「せんえつながらワタクシ、飲ませていただきます」と前口上を言ってから一気するようなバンカラな飲み方がまだ残っていました。
飲まされたあとは宴会芸。僕はもっぱら郷ひろみの「男の子女の子」が持ちネタで(笑い)。当時はウイスキーのサントリーホワイト、ニッカの角瓶。マイルドウオッカがはやり始めた頃かな。焼酎はまだはやっていなくて、ポン酒(日本酒)の時代。
「銀ぶら百年」に書きました並木通りの「BRICK」という店は新入生コンパなどによく使ったし、野球の早慶戦のあとには学生のたまり場になっていたんです。トリスのハイボールとか飲んでました。泥酔した学生が店の前の並木によじ登ってセミの鳴き声をマネていた光景が懐かしい(笑い)。その店は今も存在しているんですよ。
学生時代には有楽町の高架があるあたりの居酒屋「八起」もよく行きました。ここもまだ経営していて、ほんの数週間前にテレビのニュースでコロナ禍の飲食店に聞くインタビューを主人が受けていました。「大変ですよ」とか答えていたかな。
作家になってからはその近くの「升本」に通っていました。僕は焼酎より日本酒の味が好きです。飲むとかなり飲めるのですが、強くはないですね。酔うと正体をなくしたり記憶がなかったりですから。
■座談会後、4人で飲み会へ
みうらじゅんさん、山田五郎さん、安斎肇さんとは15年くらい前に週刊誌で座談会を連載していて、座談会のあとは必ず4人で飲みにいき、僕は決まってヘロヘロ。山田さんにタクシーで送ってもらうことが多くて。安斎さんはたくさん飲まないけど、長い時間飲んでますね。
みうらさんと2人、座敷の店で飲んだ時、トイレに行こうとしたら右足に靴がなかなか入らなくて、転んで足首をケガしてすごく腫れてしまったんです。それ以来トラウマになってしまい、座敷で飲んで酔っぱらうと無意識に右側の靴ひもを解いて靴をスリッパみたいにしている。それが癖になっちゃっていつもスリッパみたいに履いたまま帰り、目覚めると靴ひもがどこにもない(笑い)。
銀座7丁目の「ビヤホールライオン」もいまだ健在で、銀座界隈だと和光ビルと並んで戦前からある建物。僕は映画サークルにも入っていて、そこの先輩がビール会社に勤めている関係で、サークルの同窓会をやる時があります。
当時書き留めてきたスケジュールノートがいま資料に
ライオンは天井が高く大きな壁画があり、なんだか教会かヨーロッパの古城の中で飲んでるような気分になります。大きいスペースで、天井の高さや壁の厚さが作用しているかわかりませんが、他の遠くのお客さんの声が微妙に反響して聞こえてくる独特のムードが魅力的ですね。入るとちょっと異空間。昭和9年から内装はほとんど変わっていないそうです。
僕は昭和の近代史を調べるのが好きなので、いままでいろいろ書いてきましたが、年を重ねてきて最近は僕の若い頃も昭和の近代史になってきている。80年代に僕が書いていた「ナウのしくみ」がいまではレトロ。リアルタイムで書いてきたカフェバーの流行とか、自分の書いたコラムが過去を書く資料になっている。慶応の広研で大酒を飲んでいた頃、ずっと書き留めていまも取ってあるスケジュールノートの数々も、資料として役立っています。
いまはもうあの頃のようにたくさん飲めなくて、家で奥さんとワインを飲むくらい。ゆっくり飲みながら、自分が関わった東京などの近代史を書いていきたいです。
(聞き手=松野大介)
■新刊情報「銀ぶら百年」(文芸春秋/税抜き2000円) 震災も戦災も乗り越えてきた、華やかな銀座の歴史を歩く“銀座街並細見”エッセー。
▽泉麻人(いずみ・あさと) 1956年4月、東京都出身。慶応大学を卒業後、編集者を経てフリーランスに。テレビ・ラジオでも活躍。著作多数。